スケジュール

イタリア セリエA 04/19 18:45 33 カリアリ vs ユヴェントス - View
コッパ・イタリア 04/23 19:00 2 ラツィオ vs ユヴェントス - View
イタリア セリエA 04/27 16:30 34 ユヴェントス vs ACミラン - View
イタリア セリエA 04/28 14:00 - ユヴェントス vs ACミラン - View
イタリア セリエA 05/04 16:30 35 ローマ vs ユヴェントス - View
イタリア セリエA 05/11 16:30 36 ユヴェントス vs サレルニターナ - View

結果

イタリア セリエA 04/13 16:00 32 [9] トリノ v ユヴェントス [3] D 0-0
イタリア セリエA 04/07 18:45 31 [3] ユヴェントス v フィオレンティーナ [10] W 1-0
コッパ・イタリア 04/02 19:00 2 ユヴェントス v ラツィオ W 2-0
イタリア セリエA 03/30 17:00 30 [9] ラツィオ v ユヴェントス [3] L 1-0
イタリア セリエA 03/17 11:30 29 [3] ユヴェントス v ジェノア [12] D 0-0
イタリア セリエA 03/10 17:00 28 [2] ユヴェントス v アタランタ [6] D 2-2
イタリア セリエA 03/03 19:45 27 [8] ナポリ v ユヴェントス [2] L 2-1
イタリア セリエA 02/25 11:30 26 [2] ユヴェントス v フロジノーネ [15] W 3-2
イタリア セリエA 02/17 17:00 25 [18] ヴェローナ v ユヴェントス [2] D 2-2
イタリア セリエA 02/12 19:45 24 [2] ユヴェントス v ウディネーゼ [17] L 0-1
イタリア セリエA 02/04 19:45 23 [1] インテル v ユヴェントス [2] L 1-0
イタリア セリエA 01/27 17:00 22 [1] ユヴェントス v エンポリ [19] D 1-1

Stats

 TotalHomeAway
Matches played 50 27 23
Wins 26 16 10
Draws 15 8 7
Losses 9 3 6
Goals for 74 45 29
Goals against 40 18 22
Clean sheets 21 12 9
Failed to score 10 5 5

Wikipedia - ユヴェントスFC

ユヴェントスFC(Juventus Football Club, イタリア語発音: [juˈvɛntus])は、イタリアのピエモンテ州・トリノをホームタウンとするプロサッカークラブ。

1897年創設。イタリアに現存するサッカークラブでは、ジェノアCFCの1893年に次ぐ2番目に古いクラブである。スクデット獲得回数はセリエA最多の36回、国内カップ戦であるコッパ・イタリアでは最多の14回の優勝、国内スーパーカップであるスーペルコッパ・イタリアーナでも最多の9回の優勝を果たしている。欧州の舞台では、UEFAチャンピオンズリーグで2度の優勝、旧UEFAカップで3度の優勝を果たしており、イタリアで最もタイトル獲得数の多いサッカークラブである。

1923年以来、多数の実業家を輩出するイタリアの名門一族アニェッリ家がオーナーとなっており、2023年1月現在アニェッリ家の投資会社「エクソール」がクラブの株式の63.8パーセントを所有している。

世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表した2022年度版のデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2021-22シーズンのクラブ収入は4億3350万ユーロであり、世界9位、イタリアでは1位である。

History

創設期

1898年の選手

クラブは1897年11月1日にマッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによってスポルト・クラブ・ユヴェントス (Sport Club Juventus) として創設され、2年後にフットボールクラブとなった。1900年よりイタリア選手権(後のセリエAに相当する全国大会)に参加。1903年、1904年と2年連続で決勝戦に進出するも、ジェノアの牙城を崩すことはできなかった。翌1905年、決勝ラウンドでジェノアを1ポイント上回り、イタリア選手権で初優勝を果たした。ユヴェントスは他のクラブに比べ外国人選手の比率が低く、イングランド・スタイルのジェノアや、スイス・スタイルのミランと異なり、我流の全員サッカーで勝利したことはイタリアサッカーの転機になった。

1905年の選手

1906年の選手権でも決勝ラウンドに進出し、ミランと勝ち点で並んだため優勝決定のためのプレーオフが開催されることになった。試合は0-0で決着が付かず2戦目が行われることになり、ユヴェントスは中立地としてジェノヴァでの開催を提案した。しかし協会はUSミラネーゼのホームグラウンドであるミラノでの開催を決定し、これに抗議したユヴェントスは延長試合を放棄し、ミランの優勝が確定した。さらに、スイス人のアルフレド・ディック会長がトリノからの移転を主導したことや、民族主義的なイタリア人のグループとの間に対立が起こったことにより、ディックはクラブへの出資を打ち切るとユヴェントスを去った後にFBCトリノ(現トリノFC)の創設に関わることとなる。

1908年にイタリアサッカー協会が外国人選手の抑制に動くと、ミラン、トリノ、ジェノアに続きユヴェントスも一旦選手権から撤退することとなった。同年にタイトルを獲得した同じピエモンテ州のクラブであるプロ・ヴェルチェッリが台頭すると、以降ユヴェントスは地域グループ予選を突破できず、しばらくタイトル争いから遠ざかることとなる。

1920年代

エドゥアルド・アニェッリ

地域リーグを突破できないシーズンが続いた中、1923年に地元の自動車会社フィアット創業者の息子であるエドゥアルド・アニェッリ(英語版)がクラブを買い取り、会長に就任した。当時エドゥアルドはフィアットの経営に深く携わっておらず、自動車レースやサッカーなどのスポーツに熱中していた。好きが高じて、トリノで有力チームだったユヴェントスのオーナーになるが、アニェッリ家との関係は金持ち息子の趣味の延長から始まった。

1925–26シーズンには21年ぶりに、2度目のイタリア選手権優勝を果たす。ゴールキーパーには、ユース出身でイタリア代表のジャンピエロ・コンビ、プロ・ヴェルチェッリから移籍してきたヴィルジーニオ・ロセッタ(イタリア語版)はヨーロッパ有数のディフェンダーとして評価されていた。中盤のヨージェフ・ヴィオーラ(イタリア語版)とガゼルと称されたフォワードのフェレンツ・ヒルツァー(イタリア語版)はハンガリー人選手であった。ユヴェントスにおける最初の公式監督とされているハンガリー人のイェネー・カロリ(イタリア語版)は、練習と技術の習得に重きを置いた指導をした。北部リーグ決勝では、ボローニャ相手に2戦連続で引き分けたが、3戦目の直前にカロリが心筋梗塞で亡くなってしまう。タイトル獲得を誓った選手たちは3戦目を2-1で勝利し、ファイナルでもアルバ・ローマ相手に2試合で12ゴールを量産し亡き監督に捧げる優勝となった。

1926-27シーズンに優勝したのはトリノであったが、決勝リーグで対戦したユヴェントスの選手のルイージ・アッレマンディ(イタリア語版)が八百長に関与したとされ、トリノの優勝ははく奪されている。

ユヴェントスは1928年のアムステルダム五輪で結果を残したアルゼンチン代表のライムンド・オルシにいち早く目を付け、決勝戦翌日には契約条件として破格の10万リラと、フィアット509を提示した。この契約についてアルゼンチン側から多く批判が寄せられ、イタリア系であることを確認するため実際にプレーしたのは翌シーズンからとなってしまった。1929-30シーズンから1リーグ制の全国選手権が発足し、前年度に成績上位であったユヴェントスは初年度から参加した。

1930年代 - 最初の黄金期

ルイス・モンティ

1930年から35年にかけてユヴェントスは5シーズン連続の優勝を飾り、「クインクエンニオ・ドーロ (黄金の5年間)」と呼ばれるクラブの歴史上最初の黄金時代を築いた。1934年のFIFAワールドカップ・イタリア大会に優勝したイタリア代表には、実に9人ものユヴェントス選手を送り込んでおり、代表主将を務めたGKジャンピエロ・コンビに加えて、「オリウンディ」と呼ばれるアルゼンチン出身のFWライムンド・オルシやMFルイス・モンティら帰化選手が活躍した。イタリア大会はムッソリーニがファシズム宣伝のために力を入れており、助っ人としてイタリア系のオルシやモンティがイタリア代表に加わることとなり、ユヴェントスでも黄金時代の原動力となった。

新任監督のカルロ・カルカーノ(イタリア語版)は、アレッサンドリアからジョヴァンニ・フェッラーリ(イタリア語版)を伴ってユヴェントスにやってきた。イタリア代表でも最高の頭脳とされたフェッラーリとオルシのコンビは抜群で、フェッラーリのロングパスが効果的に働き、オルシはチーム総得点79のうち18点を記録した。わずか4敗で2位のローマに4ポイント差を付けて3度目の優勝を果たすと、1931-32シーズンもエドゥアルド・アニェッリは改革の手を止めず、再びアレッサンドリアからルイージ・ベルトリーニ(イタリア語版)を獲得した。アルゼンチンから獲得したモンティが太りすぎでダイエットが必要だったり、自分にパスを出されないと不満に思ったオルシがレナート・チェザリーニ(イタリア語版)を外す要求をするなどトラブルがあったが、それでも前年より総得点を10伸ばし連覇を達成した。

フェリーチェ・ボレル

フィアットの経営哲学をクラブ運営に活かし、アニェッリ家の強い経済基盤を基にしたチーム作りが行われたが、トリノのユースチームに所属していたフェリーチェ・ボレル(イタリア語版)を発掘し無名選手も登用した。契約のトラブルで前年にチームに加わるはずだったピエトロ・セルナジョット(イタリア語版)とオルシ、ボレルのトリオは強力で、前年から失点を改善しながらゴール数を維持し2位のアンブロジアーナ・インテルに8もの勝ち点差を付けて3連覇を達成した。1933-34シーズンにはボレルが2年連続で得点王に輝き、4連覇を達成すると守護神のコンビが現役引退した。1934-35シーズンの優勝でユヴェントスは5連覇を達成するものの、シーズン中盤に監督が交代しオルシもシーズン終了前にアルゼンチンに帰国した。最終節の時点でアンブロジアーナ・インテルと勝ち点が並んでいた優勝はサイクルの終わりを象徴し、1935年6月15日にエドゥアルド・アニェッリが飛行機事故で亡くなると栄光の時代は終わりを告げた。エドゥアルドの死によってアニェッリ家との関係が途切れることはなかったが、財政的に問題を抱え黄金期のメンバーを維持することはできなかった。

1937-38シーズンはインテルと最後まで優勝争いをするものの、格下であるリグーリアに敗れ勝ち点差2で優勝を逃すこととなった。一方、コッパ・イタリアではトリノを破り初優勝を果たした。それ以外の4シーズンでは優勝争いに絡むことはできなかった。

1940年代

ジャンニ・アニェッリ(左)

1940年代の主役は「グランデ・トリノ」と称された地元のライバルチームのトリノであった。1940-41シーズンのコッパ・イタリアを制覇したヴェネツィアの中心選手であるヴァレンティーノ・マッツォーラとエツィオ・ロイクの争奪戦に敗れ、両選手はトリノの栄光の中心選手となる。また、トリノはユヴェントスから、ボレル、グリエルモ・ガベット(イタリア語版)アルフレド・ボドイーラ(イタリア語版)を引き抜き、強力なチーム作りを進めていった。トリノの5連覇中は2~4位の好成績を残すが、1942-43シーズンは7ポイント差、1946-47シーズンの2位でも10ポイントの差をつけられてしまった。1947年にエドゥアルドの息子ジャンニ・アニェッリが会長に就任し、再びアニェッリ家が実権を握ることになった。

スペルガの悲劇の翌年、不幸にも有力チームがいない1949-50シーズンの選手権を制したのはユヴェントスであった。拡大された外国人枠にはデンマーク人のジョン・ハンセン(英語版)カール・プラエスト(英語版)、アルゼンチン人のリナルド・マルティーノ(イタリア語版)が加わり、イタリア人選手も1947-48シーズン得点王のジャンピエロ・ボニペルティをはじめ一流選手が揃っていた。イングランド人監督のジェス・カーヴァー(英語版)は、母国からゾーンディフェンスを持ち込み守備陣から素早く前線にボールを配給させ、攻守にハードワークするトルナンテと呼ばれるサイドのポジションを採用し、攻守のバランスを取った時代の先駆けとなるサッカーを展開した。

1950年代

オリンピックでの北欧の躍進やハンセンの活躍により、ユヴェントスとミランはヨハネス・プロエゲル(英語版)をめぐって争奪戦となる。友人であるハンセンを交渉の席に派遣することでミランを出し抜いたユヴェントスは、代わりに獲得寸前だったグンナー・ノルダールを融通した。目論みとは違いノルダールは得点王の活躍でミランを優勝に導き、デンマーク人トリオが不発だったユヴェントスは1950-51を3位で終えた。厳しい練習から選手と確執を生んだカーヴァーが監督の座を追われ、後を継いだベルトリーニも1951-52シーズンの途中に退任する。首位のチームを率いることになったジョルジョ・サロージは戦術的に柔軟性を持ったジャンピエロ・ボニペルティを軸に据え、選手権を制しスクデットを奪取した。

魔法のトリオ 左からチャールズ、シヴォリ、ボニペルティ

1952-53、1953-54シーズンはわずかながらインテルに及ばず2年連続の2位だったが、1954年から57年まで中位に沈み降格の危機さえあった。1955年頃にジャンニ・アニェッリが会長から退いたが、後任のずさんな運営により1年でウンベルト・アニェッリへ交代された。再び手綱を握ったアニェッリ家は再建にあたり、ジョン・チャールズをリーズから1億1500万リラで、リーベル・プレートに所属していたシヴォリの獲得には更に1億9000万リラを費やした。「魔法のトリオ (Il Trio Magico)」と称されたボニペルティ、シヴォリ、チャールズの攻撃陣と若手選手たちが融合した勢いは凄まじく、2位に8ポイント差を付け10度目の優勝を達成した初めてのクラブとなった。1959-60シーズンには、全得点の92のうち50点をシヴォリとチャールズが記録しており11度目の優勝を果たした。

1960年代

性格が評価されていたチャールズとは対照的にシヴォリの気性は激しく、リュビサ・ブロチッチ(英語版)はシヴォリとの確執で解任となり、ボニペルティを冷遇しシヴォリを擁護した南米派閥のチェザリーニはアニェッリ家の意向とそぐわずテクニカルディレクターを解任され、内部の状況は決して芳しくなかった。ユヴェントスは連覇を達成するものの、前年ほど圧倒した結果ではなかった。その後スクデットから遠ざかっているユヴェントスでは、1964-65シーズンにパラグアイ人であるエリベルト・エッレーラ(イタリア語版)が就任するまで監督交代が相次いだ。エリベルト・エッレーラは偶然の一致か、「魔術師」と称されたインテル監督のエレニオ・エレーラと名前だけでなく手法も通ずるところがあり、規律を重要視しチームを変革した。チームのエースだったシヴォリとは噛み合わずナポリへ移籍する要因になるものの、就任から3年目の1966-67シーズンに待望の優勝を果たした。

1930年から1960年代まで10回以上の国内優勝を果たすユヴェントスだったが、ミランとインテルが欧州のカップ戦で2度ずつ優勝しているのとは対照的にタイトル獲得までは至らなかった。

1970年代前半

ロベルト・ベッテガ

エッレーラの後任にふさわしい監督はなかなか見つからず、選手としてグランデ・インテルで活躍したアルマンド・ピッキにようやく落ち着いた。ローマから獲得したファビオ・カペッロ、ルイジアーノ・スピノージ(イタリア語版)、ヴァレーゼからロベルト・ベッテガ、パレルモからフランコ・カウジオが復帰しメンバーが揃いつつあった。1970-71シーズン半ばにピッキの不治の病が発覚すると、ズデネク・ゼーマンの叔父のチェストミール・ヴィツパーレクを下部組織のコーチから昇格せざるをえなかった。1971-72シーズンは前半の折り返し地点で首位に立つものの、ベッテガの病、ヴィツパーレクの身内の不幸と災難が相次ぐ。ここで心が折れなかったユヴェントスは終盤戦を戦い抜き、2位のミラン、トリノとわずか勝ち点差1でピッキらに捧げる優勝を果たした。

1972-73シーズンでは、当時最高の評価を得ていたディノ・ゾフをナポリから獲得し守備の穴を埋めることに成功する。しかし、前半戦終了時点ではラツィオとミランが上回り、ユヴェントスは勝ち点で5ポイント離されている状態だった。また、チャンピオンズカップの両立とワールドカップの予選にイタリア代表メンバーが駆り出されていたこともあり、残り6節時点で優勝の可能性はほぼ閉ざされていた。しかしここから怒涛の追い上げを見せたユヴェントスは、最終戦のローマに終了間際の逆転弾で勝利し、最終節で首位ミランとの1ポイント差をひっくり返し連覇を達成した。1972-73シーズンは、初めてチャンピオンズカップの決勝に進んだシーズンでもあった。国内リーグとコッパ・イタリアを制しており3冠がかかる試合には、GKにゾフ、MFにカペッロとフランコ・カウジオ、FWにはジョゼ・アルタフィーニ、ピエトロ・アナスタシ、ベッテガの3トップと初優勝が期待できるメンバーが揃っていた。しかし、決勝の相手は3連覇を達成する黄金時代のアヤックス・アムステルダムで、試合開始わずか5分にヨニー・レップのゴールで失点すると、そこからスコアは動かず0-1で敗戦し優勝を逃した。トンマーゾ・マエストレッリのラツィオに及ばず2位で1973-74シーズンを終えると、翌1974-75シーズンではヴィツパーレクが監督から身を引きオブザーバーとしてクラブに関わることになり、1959年から2年連続優勝を果たしたカルロ・パローラに再び監督を任せることになった。前年に加入したクラウディオ・ジェンティーレに加え、オスカル・ダミアーニ(イタリア語版)、後にクラブのレジェンドになるガエターノ・シレアを補強したユヴェントスは16度目の優勝を果たす。敗北した試合は2位ナポリよりも多く、得点・失点においても優れた成績ではなかったが、シーズンを通して安定感のある戦いを続けた。1975-76シーズンは前シーズンの調子のまま首位で3月を迎えるが、ミラン戦の引き分け後の3連敗で5ポイントのリードを失い、地元のライバルであるトリノに27年ぶりの優勝を許してしまった。

1970年代後半~1980年代前半 - トラパットーニ政権の黄金期

ジョヴァンニ・トラパットーニ

ジョバンニ・トラパットーニが監督に就任した1976年から退任する1986年までの10年間に、セリエAでは6度の優勝、1976-77シーズンにクラブ初の欧州タイトルとなるUEFAカップで優勝しユヴェントスは多くのタイトルを獲得した。

37歳でユヴェントスの監督に就任したジョバンニ・トラパットーニは、ミランでDFとして活躍した後にネレオ・ロッコの下で経験を積んだ若手監督だった。チームの中心選手だったアナスタージやカペッロを放出するものの、引き換えに獲得したロベルト・ボニンセーニャ、ロメオ・ベネッティがその穴を埋め安定感のあるチーム構成になった。1976-77シーズンは勢いのあるユヴェントスとトリノが他クラブを15ポイント以上引き離し優勝争いをしており、最終節の勝利により1ポイント上回ったユヴェントスが監督就任1年目での優勝を果たした。スクデット獲得の直前にはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴールの差でアスレティック・ビルバオを上回り欧州カップ戦で初優勝を果たした。翌シーズンはアントニオ・カブリーニの台頭というポジティブな要素があったものの、ピエトロ・パオロ・ビルディスら新加入選手は定位置を掴むまでには至らず、地力を押し通した2連覇となった。調子の上がらないユヴェントスはその後2シーズンを3位、2位と順位を落とし、その後の2シーズンを再び連覇する。1980年からの2回の優勝にはいくつか不可解な判定があったと指摘されており、特に1981-82シーズン最終節でユヴェントスがPKを得て優勝したことは、1ポイント差で2位になったフィオレンティーナが長く抱く遺恨の始まりとされている。

ミシェル・プラティニ

1980年に解禁された外国人選手の登録により、1982-83シーズンにはズビグニェフ・ボニエク、ミシェル・プラティニらと契約しプラティニは早速得点王に輝く。ワールドカップの優勝メンバーにユヴェントスから6人も選出されていたこともあり、コンディション面からリーグでは振るわず2位に甘んじるものの、欧州の舞台では2度目のチャンピオンズカップ決勝に進出した。メンバーにはイタリア代表のディノ・ゾフ、クラウディオ・ジェンティーレ、ガエターノ・シレア、アントニオ・カブリーニ、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシ、ロベルト・ベッテガが揃っていたが、ハンブルガーSVに敗れまたしても優勝を逃した。この敗戦で奮起したユヴェントスは、翌年UEFAカップウィナーズカップを制す。この勝利で出場権を得たUEFAスーパーカップでは、チャンピオンズリーグ決勝で相対するリヴァプールとの前哨戦となり、2-0で勝利している。

1983-84シーズンは前シーズンと同様にユヴェントスとローマの一騎打ちの構図となったが、シーズン中盤過ぎからは首位を明け渡すことなくスクデットを獲得した。また、プラティニが2年連続の得点王に輝いた。1984-85シーズンにも得点王に輝いたプラティニは3年連続でバロンドール受賞となったが、主力の故障でリーグでは6位と大きく順位を落とした。残るチャンピオンズカップ獲得へ目標を定めると、準決勝でボルドーに競り勝ち、ヘイゼル・スタジアムで行われる決勝へ駒を進めた。決勝ではプラティニのPKゴールを守り切り、クラブ創設から88年目で初の欧州チャンピオンに輝いた。しかし、試合前にはリヴァプールサポータを原因とする群衆事故で39人が亡くなっており、心から喜べる戴冠にはならなかった(詳細はヘイゼルの悲劇を参照)。

1985-86シーズンは、ボニエクとロッシを放出する一方、ミカエル・ラウドルップをラツィオから呼び戻し、トリノからはアルド・セレーナを獲得した。セレーナの獲得にはサポーターの反発もあったが、シーズンを通して21ゴールと活躍した。残り2節で勝ち点で並んでいたローマとの首位争いを制し22度目の優勝を果たした。同年末にはトヨタカップでアルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦し、2-2で決着がつかずPK戦までもつれ込んだものの、GKのタッコーニが2本セーブする活躍で世界一に輝き、この勝利により欧州クラブが獲得できる国際タイトルを全て獲得した初のクラブとなった。後半にはプラティニのテクニカルなボレーシュートのゴールが取り消されており、プラティニが芝生に寝転んで抗議している有名な写真はこの時に撮られたものである。

トラパットーニ監督時代の10年間で、セリエAで6度の優勝、コッパ・イタリアで2度の優勝、チャンピオンズカップ、カップウィナーズカップ、UEFAカップの欧州3大タイトルも制覇した。

1980年代後半~1990年代前半 - 低迷期

トラパットーニがインテルの監督に就任しプラティニが引退したことで黄金期が終わり、マラドーナ擁するナポリやベルルスコーニが会長に就任したミランが台頭するとユヴェントスは長い低迷期に入る。クラブOBであるゾフに監督を託すも状況は好転せず、プラティニの代わりを期待されたイアン・ラッシュが振るわない等、補強でも活躍する選手を獲得できなかった。1989-90シーズンにはコッパ・イタリアとUEFAカップを制するものの、ルイージ・マイフレディ(イタリア語版)に監督の座を譲ることとなる。UEFAカップ決勝の数日後には、対戦相手のフィオレンティーナから花形選手のロベルト・バッジョの引き抜きに成功したが、7位と結果を残すことができなかったマイフレディは1年で解任となり、黄金期の監督だったトラパットーニに再び指揮を委ねた。ジャンルカ・ヴィアッリ、ディノ・バッジョ、ファブリッツィオ・ラバネッリ、アンジェロ・ペルッツィ、アントニオ・コンテらを補強し優勝争いができるまでチームの力が戻り、ディノとロベルト二人のバッジョの活躍により再びUEFAカップを制するものの、時代遅れとなったカテナチオではアリゴ・サッキのゾーンプレスで革新を起こしたミランに及ばず、1985-86シーズン以来のスクデットまでは至らなかった。

1990年代後半 - リッピ政権の黄金期

マルチェロ・リッピ

体制の刷新が行われ、副会長にロベルト・ベッテガ、GMにルチアーノ・モッジ、取締役にアントニオ・ジラウド(イタリア語版)が就任し、監督にはマルチェロ・リッピが招聘された。チーム編成も見直され、アンドレアス・メラー、ジュリオ・セザール、ディノ・バッジョらスター選手を放出した一方、チロ・フェラーラ、ディディエ・デシャン、パウロ・ソウザら黄金期を象徴する選手たちが1994年に加入しチームの強化がはかられた。前シーズンに加入したアレッサンドロ・デル・ピエロも主力として定着し、強力なFW陣が得点を量産しリッピ体制初年度でスクデットを獲得した。リッピはトラパットーニの守備的なメンタリティを捨て、前線からハイプレスを仕掛ける攻撃的なサッカーへ転換を図り、守備にも貢献できる若いデル・ピエロをチームの主軸としていくことに決めたユヴェントスは、1995-96シーズンにミランから届いたバッジョへのオファーを受け入れた。翌シーズンはミランに8ポイント差を離されて優勝を逃すものの、チャンピオンズリーグではレアル・マドリード、ナントを下して決勝に進出した。決勝の相手は前年王者でありシーズンで52戦無敗の強さを誇るアヤックス・アムステルダムだったが、ラヴァネッリのゴールで1-1となったPK戦で勝利し、2度目の欧州制覇を果たした。副会長のロベルト・ベッテガは、「1985年の優勝は祝えなかった、この時を待っていた」と喜びを口にした。更に11月には東京の地で再び世界一の称号に輝いている。

アレッサンドロ・デル・ピエロ

1996-97シーズンには、更にジネディーヌ・ジダン、パオロ・モンテーロ、マルク・ユリアーノ、クリスティアン・ヴィエリらが加わりチームが強化された。ライバルであったミランが大失速し、パルマに競り勝ったユヴェントスはスクデットの奪還に成功する。翌シーズンはデル・ピエロとインザーギの「デルピッポ」コンビとジダンの組み合わせでゴールを量産し、連覇を果たしたリッピ監督は4年で3度のリーグ優勝を勝ち取った。ボスマン判決後で移籍が活発になり優勝メンバーが様変わりしたものの、勢いは国内に留まらず攻守にアグレッシブなサッカーの質を高めてチャンピオンズリーグ決勝に3年連続で進出した。事前予想では有利とされていたものの、流れを掴めなかったユヴェントスは2年連続で決勝敗退となった。

独立採算体制への移行で選手の入れ替わりが激しかったものの、モッジは監督のサッカーに適合する選手の獲得でリッピをサポートし、4年連続でタイトルを獲得しクラブ史上でも有数の黄金期となった。

2000年代初頭

1998-99シーズンは、11月8日、第8節のウディネーゼ戦において、後半ロスタイムにデル・ピエロが靭帯損傷の大怪我を負い、直後に同点弾を決められ首位から陥落すると、インザーギやジダンら主力も怪我に苦しみ7位でシーズンを終えることとなった。20節のパルマ戦に敗北すると、リッピは急遽辞意を口にしそのまま監督の座を降りてしまう。後任にはカルロ・アンチェロッティが選出されたが、サポーターからの歓迎は受けられなかった。

アンチェロッティが留任して迎えた1999-2000シーズンは、ジャンルカ・ザンブロッタ、ファン・デル・サールが加入したが、振るわなかった前シーズンのメンバー構成に大きな変化はなく、メディアからも優勝候補とは見られていなかった。安定感のある守備に支えられ、徐々に順位を上げ前半戦を首位で折り返すと、スクデット争いはラツィオとの一騎打ちとなった。中盤戦の連勝で勢いに乗ると、残り8試合で2位ラツィオとの差は9まで広がり、メディアもユヴェントスの優勝を有力とした。しかし、直接対決の敗北を含む7試合で3敗を喫すると、最終節のペルージャ戦にも敗北し最後の最後で1ポイント上回られ優勝を逃した。

2000-01シーズンは、戦力は十分と判断し移籍市場では消極的で、層に厚みを持たせるためダヴィド・トレゼゲらを獲得した。記者の事前予想ではタイトル獲得へのリベンジが期待されていたものの、コッパイタリアで早くも3回戦で敗北すると、チャンピオンズリーグでもグループリーグで最下位になり2つのタイトル争いから脱落してしまう。11月初めに残されたタイトルがリーグだけというのは19年ぶりとなる不振で、サポーターは練習場やスタジアムで批判の声を上げた。移籍市場で積極的に動き、ワルテル・サムエルやガブリエル・バティストゥータらを獲得したローマほどの勢いはなかったが、10節終了時点で2位につけスクデット争いに望みをかけた。第29節は首位ローマと直接対決となり勝ち点差6を縮めるチャンスであったが、中田英寿が2得点に絡み終了間際に同点となり追撃に失敗する。最終節の逆転優勝に望みをかけたが叶わず、2年連続で2位という結果でアンチェロッティは監督の座から退くこととなった。アンチェロッティには次シーズンの契約が残っていたが、リッピの監督就任の確約を得たクラブから最終節直前に解雇通知を受け取ることとなった。

リッピ時代の補強の成功とは打って変わって、アンチェロッティが就任してから獲得した選手がなかなか主力として定着せず、 ジダンやデル・ピエロのような代えのきかないタレントの調子に左右され続けた。アンチェロッティは「ユヴェントスで監督を務めることは楽しいか?」というインタビューに「ノー」と答えており、ファミリーのようだったパルマ監督時代と比べてユヴェントスは会社のようだったと回想している。

2000年代前半 第二次リッピ政権

パベル・ネドベド

2001年5月6日のローマ戦直後、モッジはリッピへ新シーズンの監督を打診する。バルセロナからもオファーを受け取っていたリッピだったが、最終的にユヴェントスを選んだ。移籍市場では従来の堅実な方針を転換し、チームの大改革に取り組んだ。フィリッポ・インザーギとジネディーヌ・ジダンの移籍により巨額の資金を獲得すると、リーグ屈指の選手であるパベル・ネドベド、ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラムを引き抜いた。優勝経験監督が帰還したものの、主力級選手の入れ替えにより評価が未知数なシーズンスタートとなった。開幕節を4-0で勝利し不安を吹き飛ばしたかに思えたのは束の間で、出場停止処分が解けたダーヴィッツとネドヴェドの相性が噛み合わず、9月15日から2カ月勝利することができない不調で、第14節時点で首位インテルと9ポイント離された6位に沈んでいた。しかし後半戦になると、新戦力のネドヴェドがトップ下のポジションを掴み、トレゼゲ、デル・ピエロと強力な攻撃陣となってからは連勝で上位に浮上する。残り5試合の時点で首位と6ポイントの差があったが、最終節までの5連勝で1ポイント上回り大逆転優勝を果たした。

続くシーズンではリーグ最少失点を記録した守備陣を維持し、中盤にマウロ・カモラネージ、トレゼゲが負傷した攻撃陣にマルコ・ディ・ヴァイオが加わった。安定感のある守備で前半戦を1敗で乗り切ると、中盤戦の11試合で10勝1分けと勢いに乗り、最終節を待たずに優勝が決定するのは5年ぶりのことであった。FWの調子が万全とはいえないシーズンだったが、リッピは攻守に切り替えが早いチーム戦術を浸透させ、その中でネドベドは獅子奮迅の活躍を見せた。チャンピオンズリーグでは決勝に進出し、ACミランと初のイタリア勢対決となった。リーグ優勝の立役者のネドヴェドを出場停止で欠き、トゥドール、ダーヴィッツの故障で効果的な交代策を講じれず、メディアによって「史上最も退屈なファイナル」、「退屈な試合」と形容されたこの試合は延長含めた120分でスコアが動くことはなかった。PK戦ではブッフォンが2本のシュートをセーブするものの、相手GKのジーダから2本のゴールしか奪えず、あと一歩のところで優勝を逃すこととなった。

2003-04シーズンは連覇を達成したメンバーに大きな変更はなく、開幕前から3連覇に期待が寄せられた。しかし11節、12節の連敗で順位を落としたことに加え、エドガー・ダーヴィッツとの関係が悪化し冬にバルセロナに放出すると、守備にほころびが出始め最終的に42失点を記録してしまう。前年のチャンピオンズリーグにおける敗戦で「来年このタイトルを獲得できなければ、ユーベを去る」という発言をしていたリッピだが、最低限のノルマであるチャンピオンズリーグ出場権を獲得すると退任を発表し、第2次リッピ政権は幕を閉じることとなった。

2004-06 カペッロ政権

ファビオ・カペッロ

後任の監督としてデシャンが有力とされている中、2004年5月27日にローマからファビオ・カペッロを引き抜いたことが急遽発表された。カペッロの教え子であるエメルソンをローマから連れてくることに成功するものの、新監督を迎えるための即戦力補強の動きは見られなかった。しかし、移籍期間最終日である8月31日にファビオ・カンナヴァーロ、ズラタン・イブラヒモビッチの2選手の獲得を発表する。特にイブラヒモビッチの交渉は水面下で行われており、電撃的な移籍ニュースとなった。前シーズンの課題であった守備の不安定さ、ダーヴィッツが抜けた穴、怪我がちのトレゼゲに新戦力が完全な解答となり、新体制初年度での優勝を果たした。

2005-06シーズンは、プレシーズンマッチでブッフォンが負傷するアクシデントがあったものの、優勝メンバーにパトリック・ヴィエラが加わったことでチームが強化され、セリエA記録となる開幕9連勝という最高のスタートを切った。ターンオーバーを好まないカペッロの方針で、シーズン中盤には選手に疲労が見られたが、シーズンを通して敗戦は1試合のみで、勝ち点91を積み上げ2連覇を達成した。

シーズン末の5月初旬にカルチョ・スキャンダルの問題が噴出し、FIGCによる裁判により2004-05、2005-06シーズンの優勝の剥奪とセリエBへの降格という判決が下された。主力選手のエメルソン、カンナヴァーロ、テュラム、ザンブロッタ、ヴィエラ、イブラヒモビッチが退団し戦力を大きく失うことになった。

カルチョポリ

カルチョポリとは、ルチアーノ・モッジ、アントニオ・ジラウド(イタリア語版)らユヴェントス経営陣が、サッカー連盟や審判協会と癒着し、圧力をかけ審判の選出の操作などで恩恵を受けていたとされる不正事件である。不正の首謀者とされるユヴェントスには、フィオレンティーナ、ラツィオ、ミランと比べ重いペナルティが課せられた。外部の賭博が絡み選手の敗退行為が行われる八百長とは性質が異なり、選手は事実を知らずクラブ、サッカー協会、審判部それぞれの上層部の間でやり取りが行われた。また、金品の授受の事実も無いことから、買収事件でもない。

2004年からナポリ検察によって行われた盗聴捜査でモッジによる圧力が明るみに出ると、2006年6月にイタリアサッカー連盟によるスポーツ裁判が開かれユヴェントスには2シーズンの優勝タイトル剥奪とセリエCへの降格が求刑された。裁判の中で担当弁護士は、容疑を認めつつも3部への降格は重過ぎると訴え、第一審ではセリエB降格とマイナス30の勝ち点減点の判決となり、上訴審ではマイナス17まで軽減され確定した。一旦は判決を受け入れる姿勢を見せていたものの、他の3クラブが降格処分を免れたことによりサッカー連盟を統括するイタリアオリンピック委員会(イタリア語版)へ提訴し、調停により最終的に勝ち点はマイナス9まで軽減されることになった。

また、公判中にモッジの弁護団から「インテルの幹部も口利きを受けていた」という証言がなされ、インテルの前会長であった故ジャチント・ファッケッティによる審判への口利きの証拠のテープが提出された。2011年7月18日のイタリアサッカー連盟の役員会でインテルも不正に関わっていた事実が認められたが、時効を理由に2005-06シーズンのインテルのタイトルは剥奪されなかった。2011年11月8日にモッジに5年4カ月の実刑判決が下ると、判決文に「クラブとしてユヴェントスの法的責任を問わない」という一文が添えられていたこともあり、ユヴェントスはモッジ個人の責任として改めて無実を訴えた。最終的にはモッジ、ジラウドらは2015年3月に下された判決により、時効による罪の免除となった。モッジらの罪は認定されたが、ユヴェントスと他3クラブの罰則の重さの違い、処分の対象にならなかったインテルについては議論の余地があると片野道郎は指摘している。

セリエBの戦い

カルチョポリでの厳しい処分により経営陣は刷新を迫られ、それまでサッカー界に関わりのなかったジョヴァンニ・コボッリ・ジッリが会長に、ジャン=クロード・ブランが代表取締役に就任した。また、2005-06シーズンの経営赤字は3545万ユーロ(約53億円)になっており、前年から赤字が10倍に膨れ上がるほど厳しい状態だった。 さらに、勝ち点を-17した状態からセリエBを戦わなければならなかった。クラブOBのデシャンに監督を託すと、開幕戦引き分け後の6連勝で8節には早くも借金を返済し、カルチョポリの再審議により勝ち点マイナスは9まで軽減されることになった。2007年1月20日には、デルピエロの500試合目となったバーリ戦に勝利し単独首位に立つと、2007年5月19日、閉幕まで3節を残し1年でのセリエA復帰を決めた。セリエBは所属22クラブ、6月末までシーズンが続く過酷なリーグだが、セリエBでの闘いについて、ブッフォンは「ファンと触れ合うことと、プレーすることの喜びを再発見したんだ。」とポジティブに振り返っているが、ネドヴェドは「セリエBでの1年は厳しく、困難で、長く、骨の折れるだった。」と述べている。また、20ゴールで得点王を獲得したデルピエロは、降格した年にも関わらず「もう一度体験したい時」に2006年を挙げている。一方、カモラネージやサラジェタら数人の選手がデシャンと問題を抱え、1年での復帰に貢献したデシャンはクラブを去ることになった。

安定感のない新体制

セリエB優勝が決定した2007年5月26日の試合後、1年での昇格に貢献したデシャン監督の退任が発表された。6月4日には後任にクラウディオ・ラニエリの就任が発表された。 開幕前の予想では、UEFAカップ出場権獲得も難しいだろうという声もあったが、2008年4月12日のミランとの直接対決を制しチャンピオンズリーグ出場権をほぼ手中に収めることになった。シーズンは20勝12分6敗で3位で終え、セリエA復帰1年目、また夏の補強失敗を考えると奇跡的な復活になった。シーズン前半はベンチスタートも多かったデル・ピエロだが、21ゴールの内ラスト8試合で10ゴールを決める勢いで33歳で初のセリエA得点王に輝いた。ユヴェントスとしても2年連続の得点王排出となった。

翌シーズンは開幕から常に10人前後の負傷者が発生し、前シーズン41点を決めたトレゼゲとデル・ピエロも、トレゼゲは膝の手術で離脱、デル・ピエロは開幕5試合でノーゴールと勝ちきれない試合が続き、11位まで順位を落とした。一時は首位インテルと3ポイント差まで迫るも、徐々に順位を落としチャンピオンズリーグ出場権が危うくなってきたユヴェントスは、2009年5月18日、ラニエリ監督の解任を発表した。ユヴェントスがシーズン途中に監督を解任するのは40年ぶりのことだった。ユースチームを率いていたチロ・フェラーラが暫定監督に就任し、シエーナ戦に勝利しチャンピオンズリーグ出場を確定させた。最終節のラツィオ戦は、退団が決まっていたネドヴェドのラストゲームとなった。327試合に出場したネドヴェドは最後の試合でもアシストを記録し勝利に貢献、21勝6敗11分で2位という成績でシーズンを終了した。

新シーズンに正式に監督に就任したフェラーラは、前線からのプレッシングとショートカウンターを基本とする戦術でリッピ監督時代を彷彿とさせ、サンプドリアと並び首位に立つ勢いを見せた。しかし、その後3戦で1敗2分と勢いにブレーキがかかり3位まで順位を下げてしまうと、年明け後はさらに故障者も増え、ホーム3連敗で6位まで順位を落とす。コッパ・イタリアの準々決勝、インテル戦に敗れた翌日の2010年1月28日、フェラーラ監督の解任と後任にアルベルト・ザッケローニが就任することが発表された。ザッケローニは、監督2戦目で得意の3バックを導入するが、初勝利は3戦目のジェノア戦となり、ベッテガは「良い監督だが、魔法の杖は持っていない」と皮肉交じりのコメントを残した。シーズンは7位で終了し、なんとかヨーロッパリーグ予選枠を得たものの、38戦16勝15敗7分という結果は過去数シーズンでも最悪の成績で、敗戦数、総得点、総失点では、20チーム制になってから最も悪い記録となった。

2009年から会長に昇格したブランは、2006年当時「スクデットを争うのに3年かかる」と見込んでいた。1年でセリエAに復帰し2年連続で好成績を残すなど順調に進んでいると思われたが、経営陣に強力なリーダーシップを発揮する人物が存在せず、2年連続でシーズン途中に監督が交代し盤石な基盤を整えることはできなかった。モッジの後任にスポーツディレクターに就任したアレッシオ・セッコは、2004年から2年間チームマネージャーを務めたが、記者からは「モッジのカバン持ち」として知られていた。アマチュアのセッコにユヴェントスの重職は荷が重く、元上司のモッジに助言を求めることはイメージ悪化のためにクラブから禁じられ名門復活のための的確な補強ができず、特に目玉補強だったジエゴとフェリペ・メロの不調には悩まされた。2009-10シーズン終了後、オーナーであるアニェッリ家は運営体制の改革に踏み切り、プロジェクトは4年で幕を閉じることとなった。

アンドレア・アニェッリの会長就任

アニェッリ家当主のジョン・エルカーンは、より深く経営にコミットするため、1956年から5年間会長を務めたウンベルト・アニェッリの息子であるアンドレア・アニェッリに会長を委ねた。移籍市場やチーム強化のプロがいなかったことを反省し、サンプドリアでゼネラルマネージャーを8年間務めたジュゼッペ・マロッタを引き抜いた。マロッタはセリエCからキャリアを積み上げてきた叩き上げで、サンプドリアをセリエBからチャンピオンズリーグ出場まで引き上げた実績があった。また、限られた予算で結果を出すことからも、イタリアで高く評価されていた。マロッタはサンプドリアで仕事を共にしたルイジ・デルネーリを新監督に任命し、右腕の部下のファビオ・パラティチ(英語版)も引き抜いた。デル・ネーリ監督は、2000年代前半にミラクル・キエーヴォと称されたチームを率いていた頃から一貫して、スピードに乗ったサイド攻撃を活かした速攻攻撃型サッカーを志向していた。マロッタは、サイドを主戦場とするシモーネ・ペペ、ミロシュ・クラシッチ、ホルヘ・マルティネスらを補強し、監督の戦術を後押しした。

第5節から第17節まで7勝6分という負けなしの成績で一時は2位まで順位を押し上げるものの、クアリャレッラがシーズン終了の大けがを負ったりと浮き沈みが激しく、第34節の引き分けでチャンピオンズリーグ出場が絶望的になり、15勝10敗13分で7位という成績でシーズンを終えヨーロッパリーグ出場も逃した。2011年5月21日、デルネーリ監督の解任が発表され、5年で5度目の監督解任と継続性の無さがあらわになった。シーズンの不振について、中心選手の負傷と補強選手が活躍できなかったことが指摘されている。新加入のボヌッチはしばしば失点に絡んだが、冬に加入したバルザーリと合わせて、後に「BBC」と呼ばれる守備ユニットの礎が誕生したシーズンとなった。

コンテ政権での3連覇

アントニオ・コンテ

カルチョポリによりいち早く体制の一新を迫られたユヴェントスは2011年に開場した新スタジアムで収益を改善し、オーナーの資金力に頼り競争力を落としていくライバルクラブのミランやインテルとは違い、長期的な視点でチームを強化しカルチョポリ後の低迷から抜け出すと新しいサイクルを築いていった。

2011年5月31日、現役時代に「"闘将"」と呼ばれ、ユヴェントスで13シーズンプレーしたアントニオ・コンテが新監督として就任した。失いかけていた名門の誇りと、勝利に対する精神をチームに蘇らせることを期待され、コンテ本人も「ユベントス・スピリットを取り戻す」ことを第一目標に挙げた。不振の前シーズンを受けて増資がなされ、フロントも積極的な補強を宣言し、ステファン・リヒトシュタイナー、アルトゥーロ・ビダル、ミルコ・ヴチニッチらを獲得し、ミランで契約延長に至らなかったアンドレア・ピルロはフリーでの加入となった。 サイド攻撃を軸にした4-2-4と、ピルロ、マルキージオ、ヴィダルのコンビネーションを活かす4-3-3を使い分け開幕2連勝を飾る。4-3-3のシステムが固まり、迎えた第13節ラツィオ戦は首位攻防戦で、試合をコントロールしたユヴェントスが1-0で勝利し首位で前半戦を終えた。ユヴェントスが冬の王者になるのは、2005-06シーズン以来のことであった。前半戦の戦いについて、使い慣れていた4-2-4の布陣より、4-3-3が機能すると分かると即座に戦術変更を決断し、デル・ピエロのようなバンディエラをベンチに置くこともためらわないチームマネジメントを評価されている。「スクデット決定戦」と喧伝された第25節のミラン戦から、降雪で延期された第23節も含み4戦連続で引き分けとなり、勝利より引き分けの方が多くなってしまうとコンテは無敗を強調したが、首位ミランとの差が広がり始めていた。ミランを追う形となったユヴェントスは、第28節の快勝を皮切りに、4試合で12得点、523分間無失点継続と、怒涛の4連勝で首位に返り咲いた。連勝は8まで伸び、第37節の勝利で9シーズンぶりの優勝が決定した。就任1年目で優勝を達成したコンテは、試合終了後のインタビューを「今日、ユベントスが帰ってきた」という言葉で締めた。シーズン前半の10月18日の株主総会で、アニェッリ会長自らデル・ピエロとの契約が終了することを明言しており、シーズン最終試合は退団試合となった。前半28分に得点を決め、後半57分の交代では満員のスタンディングオベーションに見送られた。最終成績は38戦23勝15分で、無敗での優勝となった。総失点の「20」は、セリエAにおける最少失点記録更新となり、「20人」からゴールが生まれたことも最多得点者数の記録更新となった。

2012-13シーズンはチャンピオンズリーグ参戦のため、戦力補強としてウディネーゼからクワドォー・アサモアとマウリシオ・イスラを獲得し、マンチェスター・ユナイテッドからは、ポール・ポグバを獲得した。一方コンテは、シエナ監督時代に八百長の事実を知りながら報告を怠ったとして、10ヶ月の資格停止処分が下された。コンテ不在の間、代行監督としてアシスタントコーチのマッシモ・カレーラが指名された。第8節のナポリ戦から5連勝で迎えたイタリアダービーで敗北すると、2011年から続いていたリーグ無敗記録は49でストップしてしまった。資格停止処分が4か月に軽減されたコンテが第16節からベンチに復帰し、リーグでも2位と勝ち点8差の首位で年内最終戦を終えた。年明けは、ピルロ、マルキージオ、キエッリーニら主力の故障でクオリティが低下したが、2位との直接対決となった第27節のナポリ戦では、引き分けという結果で差を縮めさせなかった。ナポリ戦以降8連勝で勝ち点を積み上げ、2013年5月5日に3節を残し2連覇を達成した。最終成績は、27勝6分5敗であり、開幕から1度も首位の座を譲ることがなかった。

前年に4-3-3で固まったとみられていたフォーメーションだが、コンテは改善の手を緩めず3バックを導入する。見た目上は3-5-2であるが、より攻撃的にするためサイドの選手を前線に押し上げ、4-2-4の4トップの考え方を活かした3-3-4という布陣にたどり着く。また、3バックの導入は移籍当初から守備のミスで批判されていたボヌッチの負担を軽減し、長所であるビルドアップ能力をより活かせるようになった。2トップにはヴチニッチとマトリを起用し、前線からの積極的なプレッシングを要求することでインテンシティが高まった。相手を選ばず、常に主導権を握っていく「強者のスタイル」が浸透したシーズンとなり、コンテも「今季のチームは昨季より強かった」と讃えている。

ガゼッタ・デロ・スポルトに補強の必要性が指摘されていた大型FWには、マンチェスター・シティからカルロス・テベスと、2013年1月に加入内定が発表されていたフェルナンド・ジョレンテが加入した。前シーズンの3-5-2を土台にしながら、リヒトシュタイナーが担っていた右ウィングのポジションをヴチニッチに変えることで、より重心を前に置いた3-3-4のフォーメーションを完成させようと目論んだ。ハードワークが要求されるコンテの2トップの元で、テベスは開幕1カ月でシステムに適応し、DFとの駆け引きやポストプレーでの組み立てに参加しながら6試合で4ゴールの活躍ぶりを見せた。開幕8試合で無得点試合がないという攻撃の充実ぶりながら、前シーズンからの課題であるチャンピオンズリーグとの両立には悩まされた。それでも新戦力のジョレンテがレギュラーに定着し攻撃にバリエーションが増え、序盤戦に勢いのあったローマ、ナポリの両クラブが停滞している間に6連勝で首位に躍り出た。マルキージオの怪我で出場機会が回ってきたポグバも、ビダルとのコンビで中盤を制圧しており、ヨーロッパでも屈指のレベルにあると評価された。リーグ戦では、38戦33勝3分2敗という成績で通算30回目の優勝を果たし、3連覇を達成した。12連勝1回、7連勝2回とシーズンで大崩れすることがなく、勝ち点「102」はセリエだけでなく欧州主要リーグの最多勝ち点記録を更新し、ホーム開催試合19試合全てで勝利する圧倒的な強さを示したシーズンとなった。

国内では圧倒的な強さを見せ、3年間の114試合のうち敗北したのは7試合だけだった。しかし欧州の舞台では結果が振るわず、ヨーロッパリーグでもホームスタジアムで行われる決勝にたどり着けなかった。コンテもフロントもチャンピオンズリーグ制覇の気持ちは同じだったが、積極的な補強を望むコンテに対してフロントは健全な財政を優先し、納得のいかないコンテはサマーキャンプ初日に電撃辞任した。

アッレグリ政権の黄金期

マッシミリアーノ・アッレグリ

アントニオ・コンテ辞任の翌日に後任としてマッシミリアーノ・アッレグリの就任が発表された。アッレグリは2010-11シーズンにミランでスクデットを勝ち取っているものの、ピルロを冷遇しユヴェントスへ移籍する原因となったことや、ユヴェントスへの批判を口にしていたためサポーターから歓迎されず、「#NoAllegri」というハッシュタグがTwitter上で拡散してしまった。また、3連覇チームの3-5-2を基本方針とする発言をしたものの、アッレグリはキャリアで一貫して4バックと3センターの中盤のシステムを用いてきたため、短い準備時間でどのように戦術を浸透させていくかが最初の課題となった。開幕から2カ月後の11月に入り、アッレグリは4バックの4-3-1-2のフォーメーション移行へ踏み切ると、トップ下に加えて中盤に下りて組み立てに参加するテベスの5人でポゼッションを維持することが可能になり、得点率、失点率ともに数値が改善した。リーグ後半戦が始まると2位ローマが徐々に勝ち点を取りこぼすのに対し、安定感のあるユヴェントスは独走態勢に入っていき、2015年5月2日、4試合を残し2位ラツィオとの勝ち点差が17となりリーグ優勝が確定、コンテ時代から合わせて4連覇達成となった。最終成績は、26勝9分3敗で前年に比べれば勝ち点は減少したものの、コッパイタリアで20年ぶりの優勝、チャンピオンズリーグで決勝進出と3つのコンペティションを戦い切った。単純に控え選手と入れ替えるターンオーバーではなく個々の体調に合わせて出場時間を調整し、コンディションの悪化を防いだ。チャンピオンズリーグ決勝トーナメントで息切れした試合はなく、リーグでも突出して出場時間が多かったのはブッフォン、ボヌッチ、マルキージオの3名に限られた。

チャンピオンズリーグ準決勝に進出したチームの中で唯一格下と見られていたユヴェントスだったが、前年王者のレアル・マドリードから移籍してきたアルバロ・モラタが古巣相手に2試合連続ゴールの活躍で決勝に進出した。チャンピオンズリーグ決勝のバルセロナ戦では、前半4分に失点するものの後半55分にモラタのゴールで振り出しに戻す。しかし、逆転しようと攻めあがったところにMSNトリオのカウンターで2失点すると、前評判を覆せず1-3で敗戦した。

夏のマーケットではテベス、ピルロ、ビダルが移籍し、4連覇の核だったセンターラインが総入れ替えとなったものの、マンジュキッチやケディラの獲得に加え、ウィングのポジションでも起用できるクアドラードは攻撃のオプションを増やし、ディバラやルガーニのような若い選手の加入で中期的なチーム作りへの投資も行った。

迎えた新シーズンはクラブ史上初の開幕2連敗を喫すると、10試合で勝ち点を12しか積み上げられずクラブ史上最悪の成績で14位まで沈んでしまった。浮上のきっかけは11節のトリノダービーで、マルキージオ、ケディラが復帰しディバラ、マンジュキッチのコンビがチームにフィットし始めた11月から本来の調子を取り戻し、首位ナポリとの天王山となった第25節に勝利し15連勝で首位まで順位を上げた。3月20日のトリノダービーにおいてブッフォンは、1992-93シーズンにセバスティアーノ・ロッシが記録した930分間無失点という記録を更新し、973分間無失点のセリエA新記録を樹立した。15連勝から引き分けを挟み、更に10連勝と26試合無敗で順位を上げていき、最終成績は29勝4分5敗で圧倒的強さを見せつけ5連覇を達成した。

前年と同様に主力選手であるポグバがマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したものの、前年にセリエAの得点記録を更新したゴンサロ・イグアイン、ミラレム・ピャニッチ、ダニエウ・アウヴェスを補強。ピャニッチ、イグアインの獲得はローマ、ナポリの両チームに契約解除金を払っており、移籍交渉をせず優勝を争うライバルから引き抜いた形となった。

マルキージオの長期離脱でレジスタを任せられる選手がおらず試行錯誤が続いた中、2017年1月22日のラツィオ戦において、スターティングメンバーにイグアイン、ディバラ、マンジュキッチ、クアドラード、ケディラ、ピャニッチという攻撃的なメンバーが並んだ。それまで用いていた3-5-2でも4-3-1-2の布陣でもなく、ワントップにイグアイン、ツーボランチにケディラとピャニッチ、左サイドにマンジュキッチという4-2-3-1の構成だった。トップ下のディバラはスペースを自由に移動しながらプレーし、マンジュキッチはフィジカルで優位に立つ等新たな可能性を示した。アッレグリは起床時にこのフォーメーションを思いついたと言い、攻撃的な選手を同時に5人起用することから、イタリアの政党・五つ星運動になぞらえてメディアは「チンクエ・ステッレ」と呼んだ。システム変更で最適解を発見しコッパイタリアでも3連覇を達成する力の配分で、終盤には引き分け試合が増えたものの一度も首位を譲ることなく29勝4分5敗の最終成績でリーグ6連覇を達成した。

チャンピオンズリーグでは2年前の決勝で敗れたバルセロナやキリアン・エムバペを擁し勢いに乗るASモナコを退け、レアル・マドリードと相対する決勝へ2年ぶりに駒を進めた。「可変システム」対「不変システム」の対決となったチャンピオンズリーグ決勝は、ユヴェントスが前半からプレスをかけレアルマドリードに効果的な攻めをさせず1-1の同点で折り返すものの、プレスの圧力が弱まり受けに回った後半61分、64分に立て続けに失点し、為す術がなく1-4で敗戦した。

2017-18シーズンは、前シーズンのパレルモ戦でアッレグリと言い争いになり、直後のチャンピオンズリーグのポルト戦でベンチ外処分になるなど関係悪化が噂されていたボヌッチが移籍志願し、ACミランへ加入する不穏なスタートとなった。アッレグリは毎年序盤戦にシステムの最適解を試行錯誤しながら、後半戦にピークパフォーマンスを持ってくる戦略を取っている。それでも例年通りの首位独走とはいかず、ナポリと1ポイント差の2位で冬の中断期間を迎えることとなった。12月には調子の上がらないディバラをスタメンから外し、ピャニッチを中心にケディラとマテュイディの3人の中盤で攻守のバランスを改善した4-3-3の布陣を採用し始めた。

独走して優勝した過去2シーズンと同等の勝ち点を積み上げたものの、欧州5大リーグで唯一最終盤まで優勝争いが決着せず、ユヴェントスの7連覇が確定したのは2018年5月13日のことだった。12月から用いられた4-3-3のシステムではチームのエースであるディバラを活かすことができず、4-4-2や3-5-2のフォーメーションも試されたものの最終形が固まることはなかった。また、バルザーリの衰え、ブッフォンの退団、マルキージオの相次ぐ故障と連覇を支えてきたメンバーが中心ではなくなり、サイクルの終わりを感じさせるシーズンとなった。

アッレグリが就任してからの4年間は、リーグだけでなくコッパ・イタリアでも勝ち続け、4年連続で国内2冠を達成した。また、2015年8月23日から2017年10月14日までのおよそ2年間、ホームスタジアムで開催した57試合で無敗を継続しその内45勝する圧倒ぶりだった。高いインテンシティで相手を圧倒するようなコンテのサッカーから、ポゼッションで試合をコントロールしながらゆっくり相手を料理するサッカーへ変化し、積極的な補強策で毎年メンバーを入れ替えながらもアッレグリのマネジメント力でタイトルを獲得し続けた。

拡大路線とコロナ禍

クリスティアーノ・ロナウド

ユヴェントスの課題は収益改善で、新スタジアムや継続的なチャンピオンズリーグ出場によりイタリアのクラブで唯一健闘していたが、欧州のトップクラブとは2008-09シーズンからの10年間で大きく差をつけられておりトップ10に入るのがやっとという状況であった。最初は噂話だと思われていた2018年のクリスティアーノ・ロナウドの獲得は、あと一歩で届かなかったチャンピオンズリーグ制覇のための戦力補強以上にマーケティング改善の狙いがあった。マドリーやバルセロナ、マンUといったマーケットにおいて知名度のあるクラブはSNSでも影響力を持っており、ユヴェントスと大きな差があった。Instagramだけで1億人を超えるフォロワーを持つロナウドの宣伝効果は凄まじく、移籍から1カ月経たない間にユヴェントスのInstagramのフォロワーは1.5倍に増加している。33歳を超えた選手に総額3億ユーロもの資金を投じることは、フィナンシャル・タイムズ紙にギャンブルだと評された一方、ユニフォームの売り上げは1日で52万枚に達し、さらに株価は33%上昇し、KPMGによるレポート「ロナウド・エコノミクス」では、コマーシャル収入は3年で1億ユーロの増収になり投資が回収できる見込みがあると分析された。ロナウドの獲得では意見の対立があり、反対意見のマロッタの契約が更新されなかったことからインテルへ移ることになり、アニェッリ会長と一緒に交渉を進めていたパラティチが強化責任者に昇格することになった。2019年10月24日の株主総会では、アニェッリの就任から9年間で売り上げが3.6倍、株価が9倍になったことが紹介され、2019年を「新たなゼロ年」とし、テレビ視聴者の減少に触れながらよりグローバルなマーケットへの方向性が示された。

この路線は競技面にも影響し、ロナウドを巨額の資金で獲得した時点で「優勝は当たり前、チャンピオンズリーグを制覇できなければ失敗」という空気ができあがってしまった。開幕15試合で14勝1分けは5大リーグの記録となる勢いで、第16節時点で既に2位ナポリと8ポイントの勝ち点差を付けており、「11月にリーグは終わった」「早くも8連覇は確実」という声すらあった。初黒星は3月19日に行われた第28節のジェノア戦で、その頃にはナポリと20もの勝ち点差が開いていた。

4月20日のフィオレンティーナ戦に勝利し前人未到の8連覇を達成したものの喜びは一瞬で、4日前のチャンピオンズリーグ・ベスト8のアヤックス戦の敗戦を忘れさせてくれるものではなかった。求めるところは国内リーグの外側にあり、サポーターを満足させるスペクタクルなサッカーを実現できなかったことから、5年連続でリーグ優勝に導いたアッレグリは事実上の解任となってしまった。アッレグリ解任の意見はパラティチやネドヴェド副会長から出ていたとされ、会長のアニェッリはアッレグリの退任会見において、会長の一存ではなく企業として下された決断だということを強調した。

後任のマウリツィオ・サッリ監督は、よりモダンな特徴を持ったマタイス・デ・リフトに出場機会を与え、センターバックに高い位置を要求し積極的にビルドアップに参加させた。26勝5分7敗の成績で優勝し9連覇を果たしたものの、「サッリボール」とメディアが称したショートパスで相手を崩していくサッカーと、ブランドイメージのためにロナウドを中心にするタスクは噛み合わず、試行錯誤の末首脳陣を満足させられず「サッリのユヴェントス」という具体的な形を提示できずにシーズンは終了してしまった。

年度 スポンサー収入 MD収入 コマーシャル総収入
2017-18 8690万€ 2780万€ 1億1470万€
2018-19 1億880万€ 4400万€ 1億5280万€
2019-20 1億2950万€ 3170万€ 1億6120万€

2020年3月に新型コロナの感染拡大でリーグが中断されると、拡大路線で売り上げの中で人件費の占める割合が7割まで達していたユヴェントスは財政的な苦境に陥った。実質的な親会社フィアット・クライスラー・オートモービルズのブランド・Jeepの契約でスポンサー収入を確保したものの、営業収入は20~30%減少する厳しい見通しで、全体的な売り上げが8%減少することで人件費の割合は80%に達してしまった。コロナ禍という不運があったとはいえ、2016年から3年間でバランスを取っていた収支が一気に傾き、FFPの基準を超える赤字が積み重なっていた。

サッリの解任により、監督経験が無いアンドレア・ピルロをBチームから急遽トップチームに抜擢したのは会長の判断だった。ピルロの志向するサッカーは、UEFAライセンスの修了論文「私の望むサッカー (Il calcio che vorrei)」に書かれているモダンでイタリア代表のゲームモデルと通ずるものであり、ロナウドのような守備のタスクが少ない選手を前線に置きながらハイプレスをどのように実現するか手腕が問われた。しかし新人監督にとって故障者、世代交代、ロナウドと相性の悪かった可変システムの断念と問題が積み重なり、スクデット10連覇を逃し最終節でなんとかチャンピオンズリーグ出場権は確保するという結果に終わった。ネドヴェドと共にアッレグリ解任を強く主張していたパラティチはマロッタと同様に契約を更新されず、2年連続で監督の哲学との妥協点を探ったシーズンの後に再びアッレグリを呼び戻したことに迷走が表れていた。

2021年4月18日に発表されたスーパーリーグ構想では、ユヴェントスは参加クラブに名を連ねた。アニェッリ会長は欧州クラブ協会の代表であり、UEFAとチャンピオンズリーグのフォーマットについて協議していたが、コロナ後の人件費高騰、経営悪化などを理由に寝返る形でスーパーリーグ構想を主導した。サッカー界の反発が強く構想はすぐさま頓挫してしまったが、ユヴェントスサポーターも拒否反応を示し、スタジアムではアニェッリ会長を非難するバナーが掲げられた。


ユヴェントスは、イタリアのプロサッカークラブで、トリノに本拠を置いています。1897年に設立され、イタリア国内で最も成功したクラブの一つです。セリエAで37回優勝し、コッパ・イタリアで14回優勝、UEFAチャンピオンズリーグで2回優勝しています。

ユヴェントスのホームスタジアムは、アリアンツ・スタジアムです。スタジアムは2011年に完成し、41,507人を収容することができます。ユヴェントスのファンは非常に熱狂的で、チームを「ビアンコネーリ(白と黒)」と呼びます。

ユヴェントスの歴代の名選手には、ジャンルイジ・ブッフォン、アレッサンドロ・デル・ピエロ、パベル・ネドベド、ズラタン・イブラヒモビッチ、クリスティアーノ・ロナウドなどがいます。

ユヴェントスは、常にイタリアサッカーの頂点を目指しており、毎シーズンタイトルを狙っています。チームは、攻撃的なサッカーで知られており、多くのゴールを奪うことで有名です。

2022-23シーズンは、ユヴェントスにとって重要なシーズンです。チームは、長年所属していたクリスティアーノ・ロナウドが退団したため、新しいチーム作りに励んでいます。しかし、ユヴェントスには、依然として世界トップクラスの選手が多く所属しており、タイトルを狙う力は十分にあります。