スケジュール

ルーマニア リーガI 04/26 17:00 7 ディナモブカレスト vs FCヴォルンタリ - View
ルーマニア リーガI 05/04 17:00 8 クルジュ大学 vs ディナモブカレスト - View
ルーマニア リーガI 05/18 18:00 9 ディナモブカレスト vs FC UTAアラド - View

結果

ルーマニア リーガI 04/23 16:30 6 [9] FCボトシャニ v ディナモブカレスト [8] L 2-1
ルーマニア リーガI 04/20 14:30 5 [10] FCウニヴェルシタテア・クラヨーヴァ1948 v ディナモブカレスト [7] D 1-1
ルーマニア リーガI 04/14 15:15 4 [10] ディナモブカレスト v CSMポリテフニカヤシ [7] W 1-0
ルーマニア リーガI 04/08 17:30 3 [4] オツェルル・ガラツィ v ディナモブカレスト [9] L 1-0
ルーマニア リーガI 04/01 17:30 2 [9] ディナモブカレスト v ペトロルル・プロイェシュティ [5] D 1-1
ルーマニア リーガI 03/17 16:15 1 [9] AFCヘルマンシュタット v ディナモブカレスト [14] L 3-0
ルーマニア リーガI 03/08 18:00 30 [15] ディナモブカレスト v UTAアラド [9] W 1-0
ルーマニア リーガI 03/01 18:00 29 [13] CSMポリテフニカヤシ v ディナモブカレスト [15] D 0-0
ルーマニア リーガI 02/27 16:30 28 [15] ディナモブカレスト v AFCヘルマンシュタット [6] W 1-0
ルーマニア リーガI 02/23 18:00 27 [3] CFRクルジュ v ディナモブカレスト [15] L 4-0
ルーマニア リーガI 02/18 18:00 26 [16] ディナモブカレスト v オツェルル・ガラツィ [11] W 3-1
ルーマニア リーガI 02/12 18:00 25 [5] ファルル・コンスタンツァ v ディナモブカレスト [16] W 0-2

Stats

 TotalHomeAway
Matches played 53 25 28
Wins 15 10 5
Draws 13 8 5
Losses 25 7 18
Goals for 64 37 27
Goals against 79 24 55
Clean sheets 13 9 4
Failed to score 18 8 10

フォトバル・クルブ・ディナモ・ブクレシュティ(ルーマニア語: Fotbal Club Dinamo București, ルーマニア語発音: [diˈnamo bukuˈreʃtʲ])は、ルーマニア・ブカレストを本拠地とするサッカークラブチーム。リーガ1で18回、クパ・ロムニエイで13回、スーペルクパ・ロムニエイで2回優勝しており、FCステアウア・ブカレストと並んでルーマニアでもっとも成功を収めた2クラブのひとつである。

1948年に設立され、それ以来すべてのシーズンをリーガ1で過ごしている。伝統的にホームユニフォームは全身赤色であり、現在のエンブレムは1998年に修正された版である。1951年から、ブカレスト市内中心部にあるスタディオヌル・ディナモをホームスタジアムとしている。1983-84シーズンのUEFAチャンピオンズカップではベスト4となり、同大会で準決勝に進出したルーマニア初のクラブとなった。最大のライバルはステアウアであり、両クラブの対戦はエテルヌル・デルビー(エターナル・ダービー、永遠のダービー)と呼ばれる。

History

黎明期

1948年5月14日、ウニレア・トリコロールMAIがチオカヌル・ブカレストと合併し、ディナモ・ブカレストという名称の総合スポーツクラブが創設された。ウニレア・トリコロールMAIは1948年1月に設立されていた、共産主義政権の庇護の下にあったクラブである。ディナモ・ブカレストもルーマニア共産党を象徴するスポーツクラブとなり、体制側のクラブという側面が常に付きまとった 。1947-48シーズンのリーグ戦が終わるまでは、チオカヌルがディナモA、ウニレア・トリコロールがディナモBという扱いだったが、ウニレア・トリコロールはシーズン終了後にディヴィジアB(2部)降格となった。両チームはディナモのAチーム、Bチームとして共存していたが、1950年シーズン開幕時にはディナモAがディナモBから分割され、ディナモBはまずブラショヴに、次にクルジュ=ナポカに、結局は1958年にバカウに移転し、FCMバカウとなった。

1948年7月14日、Zidnice(チェコスロバキア)と初の国際試合を戦い、4-1で勝利した。1948-49シーズンには(ディナモAが)ディナモという名称で初めてリーガ1(1部)に参戦。コロマン・ブラウン=ボグダン監督がチームを率い、ティトゥス・オゾンなどの選手たちがプレーした。1948-49シーズン終了後にはアンジェロ・ニクレスクが現役引退。指導者に転身し、後にディナモやルーマニア代表の監督を務めている。1950年にはドゥミトル・ニコラが加入。1951年10月14日には現在のディナモ・スタジアムがオープンし、ディナモ=ロコモティーヴァ・ティミショアラとの間で行われた落成記念試合に1-0で勝利した。1951年シーズンから1953年シーズンまでの3シーズンは、いずれもCCAブカレスト(現在のステアウア)に次ぐ2位でシーズンを終えた。1954年のクパ・ロムニエイでは決勝に進出したが、メタルル・レシツァに0-2で敗れた。ニクレスク監督が率いた1955年シーズンには、アレグザンドレ・エネなどの攻撃陣による攻撃サッカーで強い印象を与え、リーガ1初優勝を飾った。守備陣にはバクト、スゾコ、カリノユなどがおり、リーグ最少の19失点に抑えた。1956-57シーズンには初めてUEFAチャンピオンズカップに出場。ルーマニアで初めて国際大会に出場したクラブとなった。予選ではガラタサライSK(トルコ)と対戦。32,000人の観客が詰めかけたホームでのファーストレグには3-1で勝利し、イスタンブールでのセカンドレグには1-2で敗れたものの、2試合合計4-3で勝ち上がりを決めた。1回戦ではCDNAソフィア(ブルガリア)と対戦し、2試合合計4-10で敗れて敗退した。

1960年代と1970年代

1961-62シーズンのチームにはイリエ・ダトク、ステファン、ウングロユなどが在籍しており、ニクショル・ドゥミトル・ネデレスク監督の下で 2回目のリーグ優勝を飾った。1962-63シーズンにはリーグ戦2連覇を果たした。1963-64シーズンにはクパ・ロムニエイで決勝に進出し、ライバルのFCステアウア・ブカレストを5-3で下して2回目の優勝を飾った。UEFAチャンピオンズカップではアルフレッド・ディ・ステファノ擁するレアル・マドリード(スペイン)と対戦。ブカレストのスタディオヌル・リア・マノリウで行われた試合にはスタジアム記録となる100,000人もの観客を集めた。1964-65シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは「グランデ・インテル」と呼ばれたインテル(イタリア)と対戦し、ルイス・スアレス、ジャチント・ファッケッティ、サンドロ・マッツォーラなどと対面したが、2試合合計0-7で完敗した。同シーズンのリーグ戦では4連覇を果たした。1965年にはミルチェア・ルチェスクなどを獲得し、UEFAチャンピオンズカップでは2シーズン連続でインテルと顔を合わせたが、ホームゲームでは2-1で勝利するなど善戦した。

1970-71シーズンには6回目のリーグ優勝を飾った。1971-72シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFCスパルタク・トルナヴァ(スロベニア)を下したが、2回戦でフェイエノールト(オランダ)に敗れた。1972-73シーズンにはFCウニヴェルシタテア・クラヨーヴァなどを突き放し、7回目のリーグ優勝を果たした。1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦でクルセイダーズFC(北アイルランド)を2試合合計12-0で破った。ホームで行われたセカンドレグでは11点差 (11-0) の勝利を記録し、同大会におけるクラブ史上最大得点差記録として現在も残っている。2回戦ではハビエル・イルレタなどを擁するアトレティコ・マドリード(スペイン)と対戦し、2試合合計2-4で敗れた。1974-75シーズンはUEFAカップに出場し、1回戦でボルスポル(トルコ)を退けたが、2回戦で1.FCケルン(西ドイツ)に2試合合計3-4で敗れた。リーグ戦では8回目の優勝を果たし、32得点を挙げたドゥドゥ・ゲオルゲスクがヨーロッパ・ゴールデンシュー(ヨーロッパ全体の得点王)に輝いた。1976-77シーズンのUEFAカップでは1回戦でファビオ・カペッロなどが在籍していたACミラン(イタリア)と対戦し、2試合合計1-2と健闘した。リーグ戦では9回目の優勝を果たし、47得点を挙げたゲオルゲスクが2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。1977-78シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でアトレティコ・マドリードと対戦し、ホームで行われたファーストレグには2-1で勝利したが、アウェーでは0-2で敗れ、2試合合計2-3で敗退となった。1979-80シーズンのUEFAカップ1回戦ではアルキ・ラルナカFC(キプロス)を2試合合計12-0で下し、2回戦ではブルーノ・ペッツァイなどが牽引したアイントラハト・フランクフルト(西ドイツ)と対戦。ファーストレグに2-0で勝利したが、セカンドレグに0-3で敗れて敗退した。

1980年代

1981-82シーズンのUEFAカップ・1回戦ではレフスキ・ソフィア(ブルガリア)と対戦し、2試合合計4-2で勝利した。2回戦では17年ぶりにインテルと対戦し、クラブ史に残る勝利を挙げた。インテルにはアレッサンドロ・アルトベッリ、ジュゼッペ・バレージ、ガブリエーレ・オリアーリ、ヘルベルト・プロハスカなどの名選手が在籍していたが、ミラノでのファーストレグは1-1の引き分けに持ち込み、ブカレストでのセカンドレグはロスタイムの得点により3-2で勝利。2試合合計4-3とし、西欧の強豪を破って3回戦進出を決めた。3回戦ではIFKヨーテボリ(スウェーデン)と対戦し、後に優勝するクラブ相手に敗れた。同シーズンには10回目のリーグ優勝を飾った。1982-83シーズンには5シーズンぶりにUEFAチャンピオンズカップに出場し、予選と1回戦でヴォレレンガ・フォトバル(ノルウェー)とFKデュクラ・プラハ(オーストリア)を破ったが、2回戦でアストン・ヴィラFC(イングランド)に敗れた。国内リーグでは2連覇を達成した。1983年には国内リーグと国内カップでそれぞれ6回の優勝を果たしたコルネル・ディヌが引退。ディヌはルーマニア代表として75試合に出場し、ディナモでは通算454試合に出場した。1983-84シーズンには国内リーグ3連覇を果たし、欧州の舞台でも躍進を遂げた。UEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFCクーシュシ(フィンランド)を破り、2回戦でハンブルガーSV(西ドイツ)と対戦。ハンブルガーSVは前回大会王者であり、ヴィリ・シュルツやフェリックス・マガトなどを擁していた。ブカレストでのファーストレグには3-0で勝利し、セカンドレグは2-3で敗れたが、2試合合計5-3で準々決勝に進出。準決勝ではFCディナモ・ミンスク(ソビエト連邦)を2試合合計2-1で破り、ルーマニアのクラブとして初めて同大会の準決勝進出を決めた。準決勝ではイアン・ラッシュ擁するリヴァプールFC(イングランド)と対戦し、2試合合計1-3で敗れて敗退した。1984-85シーズンの同大会では1回戦でオモニア・ニコシア(キプロス)に勝利したが、ジャン・ティガナやベルナール・ラコンブが在籍していたFCジロンダン・ボルドー(フランス)に敗れた。1985-86シーズンのクパ・ロムニエイでは決勝でステアウアを1-0で破って優勝した。1985-86シーズンには18年ぶりにUEFAカップウィナーズカップに出場。1986-87シーズンにはリーグ戦で44得点を挙げたロディオン・カマタルがヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。1987-88シーズンのクパ・ロムニエイ決勝ではステアウアと対戦したが、ステアウアの選手たちが判定への抗議の意味で試合途中にピッチを去ったため、ディナモにトロフィーが与えられた。しかし、後にルーマニアサッカー連盟はステアウアが2-1で勝利したという裁定を下している。1989年12月のルーマニア革命後、ステアウアはディナモにトロフィーを返還する提案を行なったが、ディナモは受け取ることを拒否した。1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップではラハティとダンディー・ユナイテッドFC(スコットランド)を下したが、UCサンプドリア(イタリア)にアウェーゴール差で敗れた。

1990年代

1960年代から1970年代にディナモでプレーしたルチェスク監督が指揮を執った1989-90シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは、1回戦でKSディナモ・ティラナ(アルバニア)に2試合合計2-1で勝利し、2回戦でパナシナイコスFC(ギリシャ)に2試合合計8-1で勝利し、準々決勝ではミヤトヴィッチ擁するパルチザン・ベオグラード(ユーゴスラビア)に2試合合計4-1で勝利したが、準決勝でRSCアンデルレヒト(ベルギー)に2試合合計0-2で敗れた。同シーズンには13回目のリーグ優勝を果たし、クパ・ロムニエイでは決勝でステアウアを6-4で破って優勝。国内2冠を達成した。1990-91シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でセント・パトリックス・アスレティックFC(アイルランド)に勝利したが、2回戦でFCポルト(ポルトガル)に敗れた。1991-92シーズンのUEFAカップ1回戦ではルイス・フィーゴ擁するスポルティングCPに勝利したが、2回戦でジェノアCFC(イタリア)に敗れた。同シーズンのリーグ戦では34試合21勝13分で無敗優勝を達成した。

1990年代中盤には国内でも国外でも低迷した。3シーズン連続でUEFAカップに出場したが、1993-94シーズンはカリアリ・カルチョ(イタリア)に、1994-95シーズンはトラブゾンスポル(トルコ)に、1995-96シーズンはレフスキ・ソフィア(ブルガリア)に、いずれも予選1回戦で敗れた。この時期にはカタリン・ヒルダン、フローレンティン・ペトレ、コスミン・コントラなどが加入し、アドリアン・ミハルチェアやジアニ・キリツァなどがいたルーマニア代表組からはフロリン・プルネアが離脱した。1998-99シーズンにはリーグ最高のプレーを見せるクラブと称賛されたが、タイトル争いではFCラピド・ブカレストに敗れた。1990年代終盤には再び優勝争いに顔を見せるようになり、暗黒期を脱した。

2000年代

ポリテフニカ・ラシ戦でのディナモサポーター

1999年夏には主力選手の多くを売却し、1999-2000シーズンのUEFAカップ・1回戦ではSLベンフィカ(ポルトガル)と対戦し、エスタディオ・ダ・ルスでのファーストレグには1-0で勝利を収めたが、ブカレストのセカンドレグには0-2で敗れて敗退した。しかし、リーグ戦では(前半戦のみ)アドリアン・ムトゥを擁して8シーズンぶりの優勝を果たした。2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは予選2回戦でポロニア・ワルシャワ(ポーランド)に敗れ、リーグ戦もステアウアに優勝をさらわれた。しかし2001-02シーズンにはタイトルを奪還した。同シーズンのUEFAカップでは予選でKSディナモ・ティラナ(アルバニア)を破ったが、本選1回戦でグラスホッパー・チューリッヒ(スイス)に敗れた。2002年には再び多くの選手の売却を余儀なくされ、2002-03シーズンの成績に大きく影響した。中盤戦までは2位や3位につけていたが、7連敗を喫して9位まで落ち込んだこともあり、最終的には6位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグでは予選2回戦でクラブ・ブルッヘ(ベルギー)に敗れた。クパ・ロムニエイでは準決勝でFCアストラ・プロイェシュティを、決勝でナツィオナル・ブカレストを破り、2シーズンぶり10回目の優勝を飾った。2003-04シーズンのUEFAカップ1回戦ではFCシャフタール・ドネツク(ウクライナ)に勝利したが、2回戦でFCスパルタク・モスクワに敗れた。リーグ戦ではステアウアと熾烈な優勝争いを演じ、僅差で優勝を決めた。クパ・ロムニエイでは決勝でFCオツェルル・ガラツィを下して2連覇を果たした。

2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦ではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)と対戦し、2試合合計1-5で敗れた。2005-06シーズンのUEFAカップ1回戦ではエヴァートンFC(イングランド)を2試合合計5-2で下した。グループリーグではオリンピック・マルセイユ(フランス)、レフスキ・ソフィア(ブルガリア)、SCヘーレンフェーン(オランダ)、PFC CSKAモスクワ(ロシア)と同組となり、前回大会王者のCSKAモスクワに勝利したが、1勝1分2敗のグループ最下位で敗退した。スタッド・ヴェロドロームで行われたマルセイユ戦 (1-2) ではロスタイムにオクタヴィアン・チハジャがゴールネットを揺らしたが、すでに試合終了の笛が鳴っていたとしてゴールは認められなかった。

2006-07シーズンのUEFAカップ・グループリーグではトッテナム・ホットスパーFC(イングランド)、バイエル・レバークーゼン(ドイツ)、ベシクタシュJK(トルコ)、クラブ・ブルッヘと同組となり、2勝1分け1敗の勝ち点4でグループ2位となって決勝トーナメント進出を果たした。久々に欧州カップ戦での年越しを果たしたが、決勝トーナメント1回戦でベンフィカに敗れた。国内の舞台では前半戦を首位で終えると、その後も順調に勝ち点を伸ばし、4試合を残して18回目のリーグ優勝を果たした。最終的には2位に勝ち点13差を付けた。2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでマンチェスター・UかチェルシーFC(イングランド)が優勝していたら、ディナモに同大会の本選グループリーグ出場権が与えられたが、ミランが優勝したため、ディナモは予選を戦うはめになった。予選3回戦ではSSラツィオ(イタリア)に敗れ、本選出場権を逃した。2007-08シーズンは3回も監督が交代する激動のシーズンとなり、4位に終わった。

2008年夏、ミルチェア・レドニクが監督に復帰。2008-09シーズンはリーグ優勝とUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得が目標であり、シーズン前半戦を首位で終えたが、最終的には3位に終わった。2009-10シーズンのUEFAヨーロッパリーグでは、プレーオフでFCスロヴァン・リベレツ(チェコ)と対戦した。ホームで行われたファーストレグでは、スロヴァンが2-0とリードした88分にディナモのサポーターがピッチ内に乱入したために試合が中断された。試合後、欧州サッカー連盟 (UEFA) の管理規律委員会はスロヴァンの3-0勝利という裁定を下した。1週間後にリベレツで行われたセカンドレグでは、アウェーのディナモが3-0で勝利し、延長戦でも決着がつかなかった。試合の行方はPK戦に持ち込まれたが、10人ずつが蹴ったPK戦に9-8で勝利したディナモが劇的な勝ち上がりを決めた。同シーズンのリーグ戦では6位という結果に終わった。

2010-11シーズンのリーグ戦は6位に終わった。同シーズンのクパ・ロムニエイでは決勝に進出したが、ステアウアとの決勝ではオウンゴールが決勝点となって敗れた。2011夏にはかつてディナモでプレーしたリヴィウ・チョボタリウ監督が就任し、ガブリエル・トルジェがセリエAのウディネーゼ・カルチョに移籍した。UEFAヨーロッパリーグプレーオフではFCヴォルスクラ・ポルタヴァに敗れたが、10節終了後には最多得点・最少失点で首位に位置した。年明けの時点でもCFRクルジュに勝ち点1差で首位に立っており、3月3日、ディナモのホームゲームとしては初めてスタディオヌル・ナツィオナルで行われたガスメタン・メディアシュ戦には2-0で勝利した。しかし、ディナモは春に大きく調子を落とし、34試合で勝ち点62の5位に終わった。クパ・ロムニエイでは決勝でラピドを破り、7年ぶりの優勝を飾った。2012年夏にはスーペルクパ・ロムニエイでCFRクルジュと対戦し、7年ぶり2度目の優勝を飾った。


D.ブカレスト(ディナモ・ブカレスト)は、ルーマニアの首都ブカレストを本拠地とするサッカークラブである。1948年に創設され、ルーマニア国内リーグで21回、ルーマニア・カップで13回の優勝経験を持つ強豪クラブである。D.ブカレストは、国内リーグではステアウア・ブカレストと並んで強さを誇り、欧州カップ戦でも好成績を収めている。1984年には、UEFAカップウィナーズカップで優勝し、ルーマニアのクラブとして最初の欧州カップ戦タイトルを獲得した。また、1986年には、UEFAチャンピオンズカップで準決勝に進出した。D.ブカレストは、攻撃的なサッカースタイルで知られ、数多くのスター選手を輩出している。近年では、ムラドゥン・ペトレスク、フロレンティン・ペトレ、アドリアン・ムトゥ、クリスティアン・キブなどの選手が所属していた。