プリメーラ・ディビシオン(スペイン語: Primera División, スペイン語発音: [pɾiˈmeɾa ðiβiˈsjon])は、アルゼンチンのサッカー1部リーグであり、28チームが参加している。ボカ・ジュニアーズやCAリーベル・プレートなど、優勝回数の多いクラブは首都・ブエノスアイレスとブエノスアイレス州に集中している。

History

組織名の変遷

太字は本流、斜字は本流と並列した支流
  • 1891 アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ (Argentine Association Football League)
  • 1893-1927 アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ (Argentine Association Football League)
1912-1915 アルゼンチンサッカー連盟 (Federacion Argentina de Fútbol)
1915-1919 アルゼンチンサッカー協会 (Asociacion Argentina de Fútbol)
1919-1926 アマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateurs de Fútbol)
  • 1927-1931 アルゼンチンアマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateur Argentina de Fútbol)
  • 1931-1934 アルゼンチンサッカーリーグ (Liga Argentina de Fútbol)
1931-1934 アマチュア/プロサッカー協会 (Asociacion de Fútbol Amateur y Profesionales)
  • 1934- アルゼンチンサッカー協会 (Asociacion de Fútbol Argentino)

アマチュアリーグ時代 (1891-1930)

1891年、南米初のサッカー協会であるアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ(Argentine Association Football League、英語表記が正式名)が設立され、ヨーロッパ以外では初となるサッカーリーグが開催された。しかし1891年の1シーズン開催したのみでアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグは解散した。尚、アルゼンチンサッカー協会(AFA)は、このサッカーリーグを現在のプリメーラ・ディビシオンの前身大会と認めていない。

1893年には、現在のアルゼンチンサッカー協会(AFA)の起源となるアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ(Argentine Association Football League)が設立された。旧団体と同じ名称であるが組織としての繋がりはない。アマチュアリーグ時代にもっとも成功を収めたクラブはアルムニACであり、1900年から1911年までの12シーズンで計10回(4連覇1回、3連覇2回)優勝した。1912年にはクルブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・ブエノスアイレス(スペイン語版)のリカルド・アルダオ会長が、アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグを離脱してアルゼンチンサッカー連盟 (Federacion Argentina de Fútbol) を設立し、CAインデペンディエンテ、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ、CAアトランタ(スペイン語版)などがアルゼンチンサッカー連盟に移籍加盟。

彼らは1915年にアルゼンチンサッカー協会(Asociacion Argentina de Fútbol、現アルゼンチンサッカー協会とは別組織)に移行し、1919年にはアマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateurs de Fútbol) となって1926年まで活動を行った。ボカ・ジュニアーズはアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグにとどまったが、アマチュアサッカー協会にはCAリーベル・プレート、ラシン・クルブ、インデペンディエンテ、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロなど現在のビッグクラブが多数移籍加盟した。1927年にアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグとアマチュアサッカー協会が合併し、アルゼンチンアマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateur Argentina de Fútbol) となった。

プロ・アマ分裂時代 (1931-1934)

アルゼンチンのサッカーリーグでは、完全なプロ化を要望するクラブとプロフェッショナリズム解禁を求める選手の集団によって、協会のアマチュアリーグから1931年にプロリーグが分裂し、アルゼンチンサッカーリーグ (Liga Argentina de Fútbol = LAF) となった。これに対して協会側にはアマチュアにとどまることを希望するクラブが多く、彼らはアマチュア/プロサッカー協会 (Asociacion de Fútbol Amateur y Profesionales) という新リーグを設立したが、両者の人気・実力差は歴然としていた。3年間はアルゼンチンサッカーリーグとアマチュア/プロサッカー協会が分裂状態で併存し、FIFAに加盟していない側のリーグであるLAFのプロリーグは非公式扱いされた。だが1934年に両リーグが和解・合併してアルゼンチンサッカー協会(Asociacion de Fútbol Argentino、略称AFA、現行組織)が設立され、両リーグともプリメーラ・ディビシオンの公式記録となった。なお、公式側だったアマチュアリーグの所属クラブはすべてプロリーグの下部カテゴリーに降格させられている。

単一シーズン制 (1935-1966)

当初はブエノスアイレス、ブエノスアイレス大都市圏(特にアベジャネーダ)、ラ・プラタのクラブのみがアルゼンチンサッカー協会に加盟することができ、ロサリオやサンタフェなど地方の大都市に本拠地を置くクラブが加盟するのは後になってからである。1931年から1966年までは暦年(1月から12月)を1シーズンとし、ホーム・アンド・アウェーの総当たり戦を行って優勝クラブを決定した。しかし1936年シーズンだけは例外であり、1回戦総当たりのコパ・デ・オノール(前期リーグ)と1回戦総当たりのコパ・デ・カンペオナート(後期リーグ)を行った後に、オノールとカンペオナートの最上位クラブがコパ・デ・オロ(総合優勝決定戦)を戦った。この時代にはアルゼンチンの伝統的なビッグ5(ボカ、リーベル、インデペンディエンテ、ラシン・クルブ、サン・ロレンソ)によってリーグが支配され、36年もの間ビッグ5以外の優勝クラブが現れなかった。1951年にはCAバンフィエルドが優勝に近付き、ラシン・クルブと同勝ち点でシーズンを終えたが、2レグ制の優勝プレーオフに敗れて準優勝だった。

メトロポリターノとナシオナル (1967-1985)

1967年には単一シーズン制が廃止され、暦年の1年が2つの短期リーグ(メトロポリターノとナシオナル)に分割された。トルネオ・ナシオナルの創設者でアルゼンチンサッカー協会会長だったバレンティン・スアレスは、首都ブエノスアイレスなど一部の大都市圏のみがプロサッカーの利権を独占していることに批判的な考えを持っており、これを「連邦化 (全国への門戸開放)」するための改革を行ったのである。メトロポリターノはこれまで通り協会に正式加盟しているクラブにのみ参加が許され、ナシオナルは地域大会を勝ち上がったいわゆる「間接加盟」または「内陸」と呼ばれる地方クラブにも開かれた。この大会形式の変更はアルゼンチンサッカー界に大変革をもたらし、最初にエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタが、やがてCAベレス・サルスフィエルドやCAチャカリタ・ジュニアーズやその他のクラブがビッグ5のリーグ支配を打ち破った。また優勝には手が届かなかったものの、CAタジェレスやラシン・デ・コルドバが準優勝を飾り、その後に州リーグからメトロポリターノに特別措置で参入を認められた。選手個人レベルでもこの時代にトルネオ・ナシオナルでの活躍をきっかけに、マリオ・ケンペスら多くの「内陸」育ちの選手がキャリアアップを勝ち取った。

1967年から1969年まで、メトロポリターノに出場するクラブはAとBの2グループに分かれ、各グループの上位2クラブずつが決勝トーナメントに進出して準決勝と決勝を戦った。グループA/Bそれぞれの上位6クラブずつの計12クラブと、地区協会からの4クラブがナシオナルに参加し、1回戦総当たりで優勝クラブを決定した。また、グループA/Bそれぞれの7位と8位に加えて地区協会から4クラブが参加したプロモシオナル(昇進リーグ)も行われたが、1969年から地区協会のクラブはプロモシオナルに参加しなくなった。グループA/Bそれぞれの9位から12位のクラブはレクラシフィカトリオ(順位決定リーグ)に参加し、レクラシフィカトリオの成績によって降格クラブが決定された。1970年にはメトロポリターノ/ナシオナルそれぞれの大会形式が修正され、メトロポリターノが1回戦もしくはホーム&アウェーの総当たり戦になるとともに、ナシオナルはプレーオフをともなうグループリーグ制となった。1974年、1976年、1979年のメトロポリターノは例外であり、プレーオフをともなうグループリーグ制で行われた。1971年にはメトロポリターノの上位クラブがナシオナルの出場権を得る大会形式が廃止され、さらにプロモシオナルやレクラシフィカトリオも廃止されたため、メトロポリターノとナシオナルは出場クラブ資格や性格の異なる短期リーグではなく、性格の似通った2つの短期リーグとなった。1972年シーズンのみは旧方式が復活したが、1973年シーズンからは再び1971年シーズン方式が採用され、1985年まで同様の方式が続いた。1981年までは暦年の前半にメトロポリターノ、後半にナシオナルが行われていたが、1982年からは暦年の前半にナシオナル、後半にメトロポリターノが行われた。

ヨーロッパシーズン制 (1985-1990)

アルゼンチン代表のカルロス・ビラルド監督のアドバイスにより、1985年に大会方式が変更された。伝統的に、南アメリカなど南半球の他国では暦年制(1月頃にシーズンが始まり12月頃に終わる)が採用されていたが、ヨーロッパの主要国のように秋春制(ヨーロッパ)/春秋制(アルゼンチン)(7月にシーズンが始まり6月に終わる)を採用した南米初のリーグとなった。加えて、それまでの短期リーグ制を廃止し、1967年以前のように1年を1シーズンとしてホーム&アウェーの総当たり戦を行う方式に変更された。1985年前半には最後の短期リーグであるナシオナル1985が行われ、メトロポリターノ1985は行われずに1985-86シーズンに移行した。1987-88シーズンまでは勝利勝ち点が2点だったが、1988-89シーズンには3点となった。また、同点のまま90分を終えた場合にはPK戦を行い、PK戦の勝者に勝ち点2点を、PK戦の敗者に勝ち点1点を与える方式が採用されたが、勝利勝ち点の変更もPK戦の実施も1988-89シーズンのみだった。

アペルトゥーラとクラウスーラ (1990-2012)

1990-91シーズンには短期リーグ制が復活し、前期リーグ(7月頃-12月頃)をアペルトゥーラ、後期リーグ(1月頃-6月頃)をクラウスーラと呼ぶアペルトゥーラとクラウスーラ制が導入された。1990-91シーズン終了後には、アペルトゥーラ優勝のニューウェルズ・オールドボーイズとクラウスーラ優勝のボカ・ジュニアーズが優勝プレーオフを戦って総合優勝クラブを決定した。この大会方式変更は大きな議論を呼び、特にクラウスーラで無敗優勝を遂げたボカがニューウェルズ(クラウスーラ8位)に敗れてからは物議を醸した。1991-92シーズンのアペルトゥーラではリーベルが、クラウスーラではニューウェルズが優勝したが、優勝プレーオフは行われずに両者優勝となった。優勝プレーオフ制度は1990-91シーズンの1シーズン限りで廃止され、1シーズンに2つの優勝クラブが誕生することとなった。1990-91シーズンから1994-95シーズンまでは勝利勝ち点が2点だったが、1995-96シーズンからは勝利勝ち点が3点となった。現在の方式では地方クラブにも昇格の道が開かれているが、当時はまだブエノスアイレス市-ブエノスアイレス州-サンタフェ州地域のクラブが多数を占めていた。例えば、1990-91シーズンはブエノスアイレス市のクラブが7クラブ、ブエノスアイレス州のクラブが7クラブ、サンタフェ州のクラブが3クラブであり、その他の地域のクラブは計3クラブに過ぎなかった。

イニシアルとフィナール (2012-2014)

2010-11シーズン終了後にはリーベルが初のプリメーラB・ナシオナル(2部)降格を喫したため、彼らに対する救済措置としてリーグ改革案が公開された。プリメーラ・ディビシオンとプリメーラB・ナシオナルの計40クラブを単一リーグとし、8クラブずつ5グループに分けた上でリーグ戦を行い、それぞれのグループの上位4クラブが決勝トーナメントを争うというものだったが、メディアや各クラブサポーターの猛反対に遭って改革案は頓挫した。2012-13シーズンから前後期リーグの名称がトルネオ・イニシアル(開幕リーグ)とトルネオ・フィナール(閉幕リーグ)に変更された。最終節終了時に勝ち点で最上位のクラブが複数あった場合は、得失点差に関係なく一発勝負の優勝プレーオフで優勝クラブを決定する。大会形式はアペルトゥーラとクラウスーラ制とほぼ同じだが、フィナール閉幕後にイニシアルとフィナールの優勝クラブが争うフィナール・カンペオナート(年間優勝決定戦)が中立地で行われる。フィナール・カンペオナートは2013-14シーズンも行われたが、プリメーラ・ディビシオンのタイトルとは別のカップ戦として扱われた。また、2015年以降、1シーズン制になったため、フィナール・カンペオナートは開催されていない。

1シーズン制 (2014-現在)

2014年下期に"Torneo de Transición"として20チームにより短期リーグが行われたのち、2015シーズンは1シーズン制として30チームにより優勝を争った。しかし、2016上期の短期リーグ(2グループ+優勝決定戦)を挟み、2016-17シーズンからは、1989-90シーズン以来のヨーロッパ型の1シーズン制で優勝を争うことになった。2017-18シーズンからはAFAと別組織による運営となり、名称はスーペルリーガ・アルヘンティーナに変更され、リーグ杯(コパ・デ・ラ・スーペルリーガ)が創設された。2020年4月28日、アルゼンチンサッカー協会は、新型コロナウイルスの流行により、2019-20シーズンにおける残り全ての大会の中止を発表した。20202年コパ・デ・ラ・スーペルリーガは途中で打ち切りとなり、後に大会自体が廃止されたため、1回限りの開催となった。プリメーラ・ディビシオンは2022年までチームの降格を行わない。2021シーズンからトップリーグは再びAFAの管轄となり名称がリーガ・プロフェッショナルに変更された。


「スーペルリーガ」とは、アルゼンチンのサッカートーナメントであり、国内のトップクラブが参加する最も激しい戦いの舞台です。このトーナメントは、アルゼンチンサッカー協会によって主催され、毎年開催されます。

「スーペルリーガ」は、アルゼンチン国内で最も人気のあるスポーツイベントの一つであり、数多くの熱狂的なサッカーファンが試合を観戦するために集まります。トーナメントは、20のトップクラブが参加し、リーグ戦形式で行われます。各クラブは、ホームアンドアウェイの方式で対戦し、勝ち点を競い合います。

「スーペルリーガ」は、アルゼンチンサッカー界の最高峰であり、優勝クラブは国内リーグの頂点に立つことができます。優勝クラブは、その年の優勝トロフィーを手にし、栄光を手に入れます。また、上位のクラブは、国際大会への出場権を獲得することもできます。

このトーナメントでは、アルゼンチン国内のトップ選手たちが一堂に会し、技術、スピード、戦術の饗宴が繰り広げられます。試合は激しく、熱狂的な応援が会場を包み込みます。また、各クラブの熱狂的なサポーターたちが、応援歌やチャントを歌いながら、自分たちのクラブを熱狂的に応援します。

「スーペルリーガ」は、アルゼンチンのサッカーカルチャーの一部であり、国内のサッカーファンにとっては欠かせない存在です。このトーナメントは、アルゼンチンのサッカーの魅力を最大限に引き出し、国内外のサッカーファンに感動と興奮を与えることでしょう。