スケジュール

韓国KBO 04/20 08:00 - KTウィズ vs ロッテジャイアンツ - View
韓国KBO 04/21 05:00 - ロッテジャイアンツ vs KTウィズ - View
韓国KBO 04/23 09:30 - ロッテジャイアンツ vs SSGランダース - View
韓国KBO 04/24 09:30 - ロッテジャイアンツ vs SSGランダース - View
韓国KBO 04/25 09:30 - ロッテジャイアンツ vs SSGランダース - View
韓国KBO 04/26 09:30 - NCダイノス vs ロッテジャイアンツ - View

結果

韓国KBO 04/19 09:30 - [9] KTウィズ v ロッテジャイアンツ [10] W 3-4
韓国KBO 04/18 09:30 - [10] ロッテジャイアンツ v LGツインズ [5] W 9-2
韓国KBO 04/17 09:30 - [10] ロッテジャイアンツ v LGツインズ [6] L 5-6
韓国KBO 04/16 09:30 - [10] ロッテジャイアンツ v LGツインズ [7] L 2-7
韓国KBO 04/14 05:00 - [10] ロッテジャイアンツ v キウムヒーローズ [3] L 5-7
韓国KBO 04/13 08:00 - [10] ロッテジャイアンツ v キウムヒーローズ [3] L 1-8
韓国KBO 04/12 09:30 - [9] ロッテジャイアンツ v キウムヒーローズ [4] L 4-9
韓国KBO 04/11 09:30 - [8] サムスンライオンズ v ロッテジャイアンツ [9] L 4-0
韓国KBO 04/10 05:00 - [8] サムスンライオンズ v ロッテジャイアンツ [9] L 10-7
韓国KBO 04/09 09:30 - [9] サムスンライオンズ v ロッテジャイアンツ [8] L 8-1
韓国KBO 04/07 05:00 - 斗山ベアーズ v ロッテジャイアンツ W 6-7
韓国KBO 04/06 08:00 - [7] 斗山ベアーズ v ロッテジャイアンツ [9] W 1-8

ロッテ・ジャイアンツ(朝: 롯데 자이언츠、英: Lotte Giants)は、KBOリーグに所属する大韓民国のプロ野球チームである。ホームタウンは釜山広域市で、本拠地は同市内の社稷(サジク)野球場。KBOリーグ創設メンバー6球団の一つ。

History

1980年代

ロッテグループのオーナーで、在日韓国人一世でもある重光武雄(本名・辛格浩(シン・キョクホ))が日本で1969年に東京オリオンズの経営に参加し、球団名を「ロッテ・オリオンズ」と改称、1971年に経営権を全面獲得した。その後、「将来は母国・韓国でもプロ野球が発足する」と見込んで、1975年、韓国のロッテ製菓の傘下で社会人野球チームを作った。そして、日本の球団にはつけられなかった憧れの「ジャイアンツ」の愛称を、この社会人チームにつけて、当時の韓国アマチュア球界で最強の戦力を構築、「ロッテ・ジャイアンツ」の名はプロ野球開始以前でも韓国では確実に認識された。

1982年韓国プロ野球の発足時、ロッテグループも参入を表明した。チーム名はアマチュア時代の「ロッテ・ジャイアンツ」の名をそのまま維持して、重光オーナーの故郷である釜山・慶尚南道地域をフランチャイズ保護地域、釜山を本拠地とするプロチームに作り替える形で参加した。

しかし、アマチュア時代にかき集めた好選手たちはプロリーグ発足時に定められた地元高校出身の選手に対する保有権の原則によって手放さざるを得なくなり、釜山・慶尚南道地域の出身選手だけでチームが構成された。さらに追い討ちを掛けるように、釜山出身の豪腕エース崔東原(チェ・ドンウォン)の入団が、1982年秋にソウルで開かれた世界野球選手権大会参加のため1年間見送られ、プロリーグ発足前からチームの戦力は弱体化していた。結局1982年はシーズン5位で終了。翌年の1983年は崔東原が正式加入したものの、早くも球団史上初最下位を記録した。

1984年の前期までは下位を抜け出せなかったが、後期はエースの崔東原の力投をバックに優勝を達成し韓国シリーズの出場権を獲得。前後期の総合成績では4位だったが、韓国シリーズでは一人で4勝をあげる崔東原の超人的な活躍で、巨大戦力を擁する強豪の三星ライオンズを下して初優勝を飾った。

1985年は6チーム中2位だったが、この年前後期優勝を果たした三星に大差をつけられた。1986年は7チーム中5位とやや低迷したが、1987年と1988年は7チーム中3位と上位には残った。

1980年代はエースの崔東原に対する依存度が高すぎ、多投を強いられた崔のコンディションによってチーム成績が浮沈を繰り返すようになっていった。また当時は恒例行事のように繰り返された年俸闘争にかまけてシーズンオフのトレーニングに身が入らず、崔東原の力量も若くして衰えを見せ始めた。さらに追い討ちを掛けたのが崔の主導によって展開された選手会結成の動きであった。選手会は球団側のプロ野球廃業の脅しに屈して頓挫させられる形で収拾されたものの、ロッテ球団は選手たちに対する報復措置としてエースの崔東原と中心打者の金容哲(キム・ヨンチョル)を放出し、三星から投手の金始眞(キム・シジン)と張孝祚(チャン・ヒョジョ)を受ける大型トレードに乗り出した。

このトレードを拒否した崔東原は半年間を三星からの任意脱退の身分で送り、またトレードに巻き込まれた他の当事者たちもショックからか軒並み不振に陥った。前後期制が廃止され1シーズン制となった1989年は序盤から低迷し、ついに球団史上2度目の最下位で1980年代を終えた。

1990年代

1990年、三美スーパースターズの監督を歴任した金振栄(キム・ジニョン)を監督に迎え、スーパールーキーと言われた朴東熙(パク・ドンヒ)の入団で巻き返しを図った。しかし成績は6位に終わり、1年も満たせず金振栄がシーズン途中解任され、都偉彰がシーズン終了まで指揮を執った。

韓国プロ野球が本格的に8球団制となった1991年、1984年の優勝監督である姜秉徹(カン・ビョンチョル)が再び監督に起用した。姜秉徹監督は思い切った世代交替に乗り出し、停滞ムードを刷新。復帰初年度にチームをレギュラーシーズン4位に引き上げ、1984年以来8年ぶりにポストシーズンへ出場し、韓国プロ野球史上初の観客100万人動員の立役者になった。

翌年の1992年は新人の廉鍾錫(ヨム・ジョンソク)の大活躍で順位をレギュラーシーズン3位と前年より順位を上げ、2年連続ポストシーズン出場を果たした。ポストシーズンでは前評判を覆して、強豪のヘテ・タイガースとビングレ・イーグルスを連破。準プレイオフから這い上がって韓国シリーズを制覇する最初のチームになると同時に2度目の優勝を飾った。また2年連続でシーズン観客100万人を超える快挙も達成した。

だが、戦力に合わない優勝は選手たちの慢心を誘い、1992年シーズン終了後、多くの選手が年俸闘争に突入。契約更改に気が向いた分、チームの戦力の低下を招き、もともとレギュラーシーズン3位が妥当だった戦力から滑り落ちたチームは1993年6位に後退した。シーズン終了後、姜秉徹監督を解任した球団は球団OBで1980年代の中心打者であった金用熙(キム・ヨンヒ)監督を招聘したが、1994年シーズンは2年連続6位に終わった。

1995年、チームは立ち直りレギュラーシーズン3位に返り咲いた。シーズン終了まで熾烈な争いを通じて4位のヘテ・タイガースを3.5ゲーム差で突き放し準プレーオフを消滅させ、プレーオフ直行を決めた。プレーオフでは上位チームのLGツインズを4勝2敗で下し、韓国シリーズに進出したが今度は第5戦で先に王手をかけながら第7戦まで行く接戦の末にOBベアーズに敗れ、準優勝に終わった。

1996年は、故障者続出で5位に止まった。金用熙監督は選手の自律性を重視して一切のトレーニングを選手に任せる方針を取っていたが時間が経つにつれ、この放任主義が選手たちの怠惰を招き、ついに1997年シーズンは1989年以来、8年ぶりの最下位に転落した。

1998年も不振が続き、2年連続最下位の屈辱を味わった。しかしマジックリーグ、ドリームリーグの8球団2リーグ制に変更となった1999年は、故障で喘いだ投手陣の復調と外国人選手のフェリックス・ホセの活躍が打線の連鎖反応を起こし、シーズン序盤から飛び出した。夏場までドリームリーグの1位の座を守っていたがシーズン終盤、猛追を見せた斗山ベアーズにリーグ首位の座を明け渡し、2位でシーズンを終了した。だが、プレーオフで1勝3敗の劣勢を覆して三星ライオンズを下す大逆転劇を演出、4年ぶり韓国シリーズ出場を決めた。シーズン終盤の順位争いに白熱したプレーオフで疲れきったチームは韓国シリーズでハンファに1勝4敗で敗れ、またも準優勝に終わった。この年はレギュラーシーズンで2位とチーム史上最高の成績を記録した。

2000年代

2000年は、成績は前年より落ちたものの比較的に弱いチームが集まったマジックリーグに所属が変わったお陰で何とかリーグ2位の座は保つことはできた。マジックリーグ2位の座は守ったが、ドリームリーグ3位の三星ライオンズに年間勝率で劣り、両チームが準プレーオフをする羽目になった。結局、準プレーオフで三星に敗退。これを最後に2008年までポストシーズンに姿を現すことはなく、長い暗黒時代が到来した。

再び1リーグ制に戻った2001年、チームは早くから最下位に低迷していった。チームを2年連続ポストシーズンに導いた金明星(キム・ミョンソン)監督が成績低下からくるストレスによる心筋梗塞でシーズン途中に急逝する事態が起こってしまい、ヘッドコーチの禹龍得(ウ・ヨンドゥク)が監督代行を務めたがチームは最下位を免れなかった。2002年は監督代行の禹龍得を正式監督に昇格させたが、チームの統率が取れず勝率2割台の惨憺な成績でシーズンの半分も消化していない62試合目で禹監督を解任した。日本時代からかねてロッテ球団と縁があった白仁天が監督に迎えたが、精神力を強調する白監督の方針は選手たちの反発を招き、2002年はシーズン100敗寸前の97敗を記録するほど情けない戦いぶりを見せた。翌シーズンも状況は変わらず、91敗で2年連続90敗で3年連続最下位に終わった。

結局、2001年から2004年まで4年間でシーズン途中監督交代4度、代行を含め6人の監督を座らせる迷走で4年連続最下位となった。一時は年間120万人も集まった本拠地釜山のファンにもそっぽを向かれ、1試合あたりの観客動員が2000人台を切るまでに凋落し、観客動員は全盛期の10分の1にまで縮んでいった。

このような事態に直面したチームは、整然な理論家で知られていた球団OBの楊相汶(ヤン・サンムン、양상문)に2004年から指揮を取らせた。2004年も最下位を脱出できなかったが、2005年は最下位を脱出して5位に浮上。チームは夏場までポストシーズン争いをするほど健闘を見せ、チームから離れていったファンも戻り始めた。

ところが、この年の健闘ぶりについ色気を出した球団はその年限りで楊監督との契約を打ち切った。その後、2006年は周辺の厳しい見込みにもかかわらずチームを2度の韓国シリーズ優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)監督を復帰させて上位進出を図ったが、結果は7位に終わった。

2007年は序盤の善戦で本拠地釜山を始め、全国的な野球人気復活の先導役になったが、中盤以降に失速し前年と同じ7位に低迷した。結局、チーム史上唯一の優勝監督だった姜秉徹監督の3度目の采配は2年で幕を下ろした。

2008年からは大リーグのミルウォーキー・ブルワーズで監督経験のあるジェリー・ロイスター(Jerry Royster)が、韓国プロ野球史上初の外国人の正式監督として新監督に就任し、レギュラーシーズンを3位で終え8年ぶりに悲願のポストシーズンに進出した。準プレーオフ開幕直前では前年よりチーム力が落ちていると言われた公式戦4位の三星より優位の前評判だった。しかし、12年連続でポストシーズン出場の貫禄を誇る三星に力を出せず3連敗で完敗。特に、自信を持っていた先発陣が総崩れした上、得点圏での拙攻が目についた。

2009年は、レギュラーシーズン4位で2年連続ポストシーズン進出に成功し準プレーオフに出場したが、斗山ベアーズに敗れた。

2010年代

2010年は2年連続レギュラーシーズン4位で、球団史上初となる3年連続ポストシーズン進出を決めたが、斗山に第1,2戦と連勝したものの、第3戦以降3連敗し3年連続準プレーオフ敗退となった。またこの年限りでロイスター監督も退任し、梁承虎監督が就任した。2011年は8球団1リーグ制となった1991年以降(2リーグ制だった1999-2000年を除く)最高となるレギュラーシーズン2位の成績をおさめ、ポストシーズン連続出場を4年連続に伸ばし、12年ぶりにプレーオフへ進出した。2勝3敗でSKワイバーンズに敗れ、4年連続でポストシーズンの次のステージに進めなかった。同年オフには主砲の李大浩がFA(フリーエージェント)となり、日本プロ野球・オリックスへと移籍していった。

2012年はレギュラーシーズン4位で斗山との準プレーオフを勝ち抜き、ようやくポストシーズンで次のステージに進むことができたが、次のプレーオフでは2年連続でSKワイバーンズに敗れた。プレーオフ敗退から1週間後の10月30日に梁承虎監督が辞任し、翌11月には金始眞が監督に就任した。韓国シリーズに出場できなかったが、本拠地の社稷野球場でシーズン終了後に開催されるアジアシリーズには「地元枠」にて参加。権斗祚首席コーチが監督代行として指揮を執ったが、グループリーグで敗退した。

韓国プロ野球が本格的に9球団制へ拡大した2013年は5位で、2007年以来6年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。総観客動員数も約77万人と2012年比で44%も減少してしまった。2014年は7位で金始眞監督も辞任した。2014年10月、李鍾雲監督が就任した。プロ野球が10球団制へ拡大した2015年は8位、低迷から抜け出すことはなかった。同年限りで李鍾雲監督は解任され、2015年10月、趙原佑監督が就任した。2016年は2年連続8位で4年連続ポストシーズン進出に失敗した。2017年はレギュラーシーズン3位で5年ぶりにポストシーズンへ進出したが、準プレーオフでNCダイノスに敗れた。2018年は7位でポストシーズン進出に失敗し、趙原佑監督は更迭され楊相汶が2005年以来13年ぶりに監督に再任された。

2019年シーズンは途中から最下位に低迷し、7月19日には楊相汶監督が辞任し孔聖弼主席コーチが監督代行に就任するも10球団制以降では初、15年ぶりの最下位となった。2019年10月、許文會監督が就任した。

2020年代

2020年は7位だった。2021年5月11日、当時最下位に低迷していたため許文會監督が解任され、球団史上2人目となる外国人監督のラリー・サットンが二軍監督から昇格し監督に就任した。しかし2021年、2022年は2年連続8位だった。2023年はシーズン途中の8月28日、ラリー・サットンが監督を辞任、2015年に監督を務めた李鍾雲が監督代行に就任したが7位で、6年連続ポストシーズン進出に失敗した。

2024年より金泰亨が監督に就任する。