スケジュール

ウルグアイ 前期リーグ 03/24 19:00 6 ペニャロール vs ナシオナル・モンテビデオ - View
コパ・リベルタドーレス 04/02 21:00 - ナシオナル・モンテビデオ vs クラブリベルタ - View
コパ・リベルタドーレス 04/09 21:00 - リーベルプレート vs ナシオナル・モンテビデオ - View
コパ・リベルタドーレス 04/23 21:00 - ナシオナル・モンテビデオ vs デポルティーボ・タチラ - View
コパ・リベルタドーレス 05/07 21:00 - ナシオナル・モンテビデオ vs リーベルプレート - View
コパ・リベルタドーレス 05/14 21:00 - デポルティーボ・タチラ vs ナシオナル・モンテビデオ - View

結果

ウルグアイ 前期リーグ 03/17 22:30 5 ナシオナル・モンテビデオ v クラブ・アトレティコ・プログレッソ - PPT.
コパ・リベルタドーレス予選 03/15 00:30 16 ナシオナル・モンテビデオ v オールウェイズ・レディ W 7-5
ウルグアイ 前期リーグ 03/10 22:30 4 [6] ディフェンソール・スポルティング v ナシオナル・モンテビデオ [4] D 3-3
コパ・リベルタドーレス予選 03/08 00:30 16 オールウェイズ・レディ v ナシオナル・モンテビデオ L 1-0
ウルグアイ 前期リーグ 03/02 23:00 3 [5] ナシオナル・モンテビデオ v モンテビデオ・ワンダラーズ [11] W 3-0
コパ・リベルタドーレス予選 02/28 22:00 15 ナシオナル・モンテビデオ v アカデミア・プエルト・カベロ W 2-0
ウルグアイ 前期リーグ 02/25 20:00 2 [8] リベルプールFC v ナシオナル・モンテビデオ [7] D 1-1
コパ・リベルタドーレス予選 02/21 22:00 15 アカデミア・プエルト・カベロ v ナシオナル・モンテビデオ W 0-2
ウルグアイ 前期リーグ 02/16 23:30 1 ナシオナル・モンテビデオ v CAリベールプレート W 2-1
ウルグアイカップ 02/06 20:00 4 リベルプールFC v ナシオナル・モンテビデオ L 2-1
クラブ親善試合 01/24 00:30 - ペニャロール v ナシオナル・モンテビデオ W 0-2
クラブ親善試合 01/20 01:15 - ナシオナル・モンテビデオ v コロコロ L 0-1

Stats

 TotalHomeAway
Matches played 52 26 26
Wins 24 15 9
Draws 18 7 11
Losses 10 4 6
Goals for 84 45 39
Goals against 50 20 30
Clean sheets 20 11 9
Failed to score 10 4 6

クルブ・ナシオナル・デ・フットボール(スペイン語: Club Nacional de Football, スペイン語発音: [kluβ nasjoˈnal de ˈfutbol])は、ウルグアイのモンテビデオをホームタウンとするスポーツクラブ。特にサッカーチームが有名であるが、他にも多くの競技チームを保有している。通称はナシオナル・モンテビデオ(Nacional de Montevideo)。

History

クラブ創設(1899年)

南米にはヨーロッパ出身の移民労働者によって創設されたサッカークラブが多く、ライバルのペニャロール(1913年まではCURCC)もまたイギリス人労働者によって創設されたクラブである。一方、ナシオナルは、旧来からモンテビデオに住むウルグアイ人が中心となって創設した、南米初のクリオーリョのためのクラブである。なお、当時のウルグアイの人口はわずか93万人であり、首都モンテビデオの人口29万人の半数以上がウルグアイ国外出身者であった。

1899年5月14日、ウルグアイAC(Uruguay Athletic Club)とモンテビデオFC(Montevideo Fútbol Club)が合併してクルブ・ナシオナルが創設された。ウルグアイの独立指導者ホセ・アルティガスが掲げた3色旗に由来する白・青・赤をクラブカラーと定め、赤色をメインに青色も用いたユニフォームをデザインした。ヨーロッパ人によって運営されるクラブが多数を占める中、クリオーリョによるクラブの結成は悲願であった。

1899年6月18日、インテルナシオナルとの間でクラブ初試合となる親善試合を開催した。1900年7月15日には、後にスーペルクラシコとなるペニャロールとの初対戦が行われた。

アマチュアリーグ時代(1900年-1931年)

1900年、ヨーロッパ人によって運営される4クラブ(アルビオンFC、CURCC、ドイチャーFK(Deutscher FK)、ウルグアイ・アトレティック(上述のウルグアイACとは別クラブ))によってウルグアイサッカー協会が設立され、国内リーグが開幕した。ナシオナルもリーグへの加盟を申請したが、クリオーリョ系のクラブということで参加を拒否された。しかし、ナシオナルの親善試合における傑出した成績が評価されてアルゼンチンリーグに招待されたことを受け、リーグに所属するヨーロッパ系の4クラブは、ナシオナルの申請を受け入れざるを得なくなった。リーグ創設2年目となる1901シーズンに、ついにナシオナルは国内リーグ参加を果たした。以来、一世紀超にわたり一度もリーグ脱退や2部降格することなく現在に至っている。

翌1902シーズンには国内リーグ初優勝を遂げた。同じ年、赤色だったユニフォームが白色に変更された。1903年9月13日、ウルグアイ代表はアルゼンチン代表との親善試合を行い、アルゼンチン代表を相手に3試合目にして初勝利(スコアは3-2)をあげた。この時のウルグアイ代表のメンバーは完全にナシオナルの選手だけで構成されていた。前年に続き1903シーズンもリーグ戦を制した。2シーズン続けて無敗での優勝であった。ナシオナルの選手たちは1900年前後に新しく持ち込まれたプレースタイルを具現化し始めており、従来よりも肉体的なコンタクトを減らし、より創造的で敏速な連係プレーやドリブルなどを多用した。マガリーニョス・ピッタルーガはナシオナルについて以下のように述べている。

イギリス系のクラブのプレーは、純粋で標準化されたイギリスのスポーツの美学に則って行われた。ポジション変更が少ないプレー、ロングパスの多用、強烈なシュート、肉体の強さを活かしたプレーなどである。選手の肉体自体が武器となり、攻撃的にも守備的にもプレーする。(中略)ナシオナルはイギリス系のクラブに比べて小柄で機敏な選手で構成される。(中略)肉体の接触を捨て、自身の創造性に従ったプレーを選択する。彼らはドリブル、スピードのあるショートパス、ダッシュを行い、常にピッチを走り続ける。

1911年、27歳のホセ・マリア・デルガドが会長に就任し、1916年に世界トップクラスの選手だったエクトル・スカローネが加入すると、ナシオナルは最初の黄金期を迎えた。1915シーズンには国内リーグ、コパ・コンペテンシア、コパ・デ・オノールの国内3冠(トリプレ・コローナ)を達成。1916シーズンと1917シーズンも続けて国内リーグを制し、ウルグアイ初のリーグ3連覇(コパ・ウルグアージャ・エン・プロピエダ)を達成した。

草創期の国際大会 - アルゼンチン勢との対決

1905年の第1回コパ・デ・オノール・クセニエールでアルムニ(アルゼンチン)を破って優勝した時のチーム

この時代のナシオナルは国際大会でも活躍した。当時、アルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会(AUF)は、両国のカップ戦王者同士が対戦するタイ・カップ(Tie Cup)とコパ・デ・オノール・クセニエール(Copa de Honor Cusenier)を共催していた。ナシオナルはウルグアイの代表としてこれらの大会に何度も出場しており、タイ・カップで2回(1913, 1915)、コパ・デ・オノール・クセニエールでは歴代最多の4回(1905, 1915, 1916, 1917)の優勝を遂げた。1916年には、アルゼンチンとウルグアイの国内リーグ王者同士が対戦するコパ・アルダオの国際タイトルも獲得した。コパ・アルダオは、後のコパ・リベルタドーレスの礎となった大会である。この大会でナシオナルはウルグアイ勢最多となる5回の優勝を記録した。当時の国際大会におけるナシオナルのライバルは、ラシン・クラブ、ボカ・ジュニアーズ、リーベル・プレート、インデペンディエンテ、アルムニなどであった。

オリンピック・ワールドカップでの活躍

国内やアルゼンチンでの大会で成功を収めた後、ナシオナルは国際舞台でも大きな活躍を遂げた。1924年のパリオリンピックにはアンドレス・マサーリ、サントス・ウルディナラン、エクトル・スカローネ、アンヘル・ロマーノ、アルフレード・シベーチ、パスクアル・ソンマの6選手をウルグアイ代表に送り込んだ。ウルグアイは決勝でスイスを破り、初出場・初優勝を遂げた。続く1928年のアムステルダムオリンピック、1930年に自国で開催した第1回FIFAワールドカップでも、ナシオナルはウルグアイ代表に多数の選手を送り込み、そのすべてでウルグアイは優勝を果たした。

国内リーグでの成功や、所属選手の代表チームでの活躍などの理由から、1925年には長期間のヨーロッパ遠征に招待され、190日におよぶ滞在期間中に38試合を行った。9ヶ国のプロサッカークラブや各国代表チームと対戦し、26勝7分5敗(130得点30失点)の成績を残した。ヨーロッパ遠征中には約80万枚のチケットが売れた。1927年にはアメリカ遠征を行い、16勝2分1敗の成績を残した。

プロリーグ化とリーグ5連覇(1932年-1940年代)

5連覇達成期の前線の選手

1932年4月29日、ウルグアイサッカー協会は国内リーグのプロリーグ化を実施した。ナシオナルは、アマチュアリーグ時代(1900-1931シーズン)の優勝回数において最多の11回を数えた。また、1920年代前半まで開催されていた国内カップ戦のコパ・コンペテンシア(優勝7回)、コパ・デ・オノール(優勝7回)の優勝回数も共に最多であった。

1938年、ボカ・ジュニアーズからアティリオ・ガルシアが加入した。この年から1944シーズンまで、ガルシアはリーグ記録となる7年連続得点王に輝いた。ガルシアの活躍もあり、ナシオナルは1939シーズンから1943シーズンにかけて国内リーグ5連覇(キンケニオ・デ・オロ)を達成。この5年間に国内リーグで96試合を戦い、77勝9分10敗(318得点108失点)の成績を残した。1941シーズンは、プロリーグ化以降唯一の完全優勝(20戦全勝)でリーグを制した。この間、ライバルのペニャロールに対しても、史上最長となる国内リーグにおけるクラシコ10連勝を達成した。

ガルシアは、フェルナンド・モレーナに次ぐ国内リーグ通算歴代2位となる209ゴールを記録した他、ナシオナルに在籍した14シーズンの間に、7年連続を含む8回の得点王、通算207ゴール、ペニャロール戦での通算35ゴール、ペニャロール戦での1試合4ゴール(いずれも歴代最多)などの記録を残した。また、クラブとしても5連覇を含む8回のリーグ優勝に貢献した。

南米王者・世界王者への挑戦(1940年代-1980年代)

1948年、南米最強クラブを決めるためにカンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネス(南米クラブ選手権)がチリで開催された。同大会には南米サッカー連盟(CONMEBOL)に加盟する7ヶ国(パラグアイ、コロンビア、ベネズエラは不参加)の王者が参加し、ウルグアイからは前年の国内リーグを制したナシオナルが出場した。大会は1試合総当たり方式で行われ、ナシオナルは、ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)、リーベル・プレート(アルゼンチン)に次ぐ3位の成績を残した。この大会はコパ・アルダオと共に、後のコパ・リベルタドーレスの創設に向けての重要な足掛かりとなったと見なされている。

1960年には南米王者を決めるコパ・リベルタドーレスが創設された。ナシオナルは1962年に初出場を果たした。1964年には準決勝でコロコロ(チリ)を破って決勝に進出したが、インデペンディエンテ(アルゼンチン)に敗れ準優勝に終わった。1967年にはクルゼイロ(ブラジル)、ペニャロールと同居した準決勝リーグを突破したが、決勝でラシン・クラブ(アルゼンチン)に敗れて再び準優勝に終わった。1969年には準決勝でライバルのペニャロールを破ったが、決勝でエストゥディアンテス(アルゼンチン)に敗れて3回目の準優勝に終わった。決勝で敗れた相手はいずれもアルゼンチンのクラブであった。

1971年大会で4回目の決勝進出を果たした際もアルゼンチンのエストゥディアンテスとの対戦となったが、3連覇中の相手にひるまず勝利して同大会初優勝を飾った。同年にはインターコンチネンタルカップにも出場し、ストライカーのルイス・アルティメの2得点でパナシナイコス(ギリシャ)を破り、初のクラブ世界一となった。この時代の南米のトップクラブは全般的に荒っぽいプレーで知られており、UEFAチャンピオンズカップ優勝のアヤックス(オランダ)が出場を辞退したため、準優勝のパナシナイコスが代わりに出場していた。翌1972年のコパ・インテラメリカーナではクルス・アスル(メキシコ)を破って優勝した。

1980年のコパ・リベルタドーレスでは決勝でインテルナシオナル(ブラジル)と対戦し、超満員のセンテナリオでインテルナシオナルを破って2回目の南米制覇を果たした。同年のインターコンチネンタルカップではノッティンガム・フォレスト(イングランド)と対戦し、ワルデマール・ビクトリーノが唯一の得点をあげてノッティンガムを撃破、2回目の世界一となった。

1988年のコパ・リベルタドーレス決勝ではニューウェルズ・オールドボーイズ(アルゼンチン)と対戦。センテナリオでの試合ではバルガス、デ・レオン、オストラサが得点して3-0で勝利、3回目の南米王者に輝いた。同年のインターコンチネンタルカップではフース・ヒディンク監督が率いるPSV(オランダ)と対戦し、2-2(得点はいずれもオストラサ)で決着がつかなかったが、PK戦に勝利して、3回目の世界一を達成した。1989年のレコパ・スダメリカーナではラシン・クラブ(アルゼンチン)を破って優勝した。同年3月のコパ・インテラメリカーナではCDオリンピア(ホンジュラス)に勝利して2回目の優勝を飾った。

過渡期(1980年代-1990年代)

1986シーズンは、ナシオナルとペニャロールが共にクラブの財政上の理由で第1節に出場できないという出来事があった。ペニャロールはウラカン・ブセオとの初戦に不戦敗となったが、もともと第1節に試合が組まれていなかったナシオナルは影響を受けなかった。結局この差が最後まで響き、ペニャロールは、ナシオナルに勝ち点1差の2位でシーズンを終えた。しかし、日程の不公平を解消するための救済措置として優勝決定プレーオフが行われることになり、ナシオナルはPK戦の末にペニャロールに敗れ、逆転で優勝を奪われた。

1992シーズンにはフリオ・デリー・バルデスとアントニオ・ビダル・ゴンサレスの活躍で9年ぶりのリーグ優勝を果たした。1993シーズンから1997シーズンまではペニャロールに2回目の5連覇を許した。1990年代の大部分は財政危機に悩まされ、競技面で得た成功は少なかったが、1998シーズンにはウーゴ・デレオン監督の下でリーグを制し、1994年に短期リーグ制(アペルトゥーラとクラウスーラ)が採用されて以降、アペルトゥーラ、クラウスーラ双方で優勝した初のクラブとなった。

新興勢力の台頭(2000年以降)

国内リーグは、1932年のプロリーグ化以降、1976シーズンにデフェンソールが優勝するまでの間、40年以上にわたりペニャロールとナシオナルの2強が優勝を独占してきた。しかし、1980年代以降はデフェンソールやダヌービオが上位に進出する機会が増えてくるなど、若干勢力図に変化が出てきている。それでも2000シーズンから2019シーズンまでの21シーズン(暦年方式→越年方式、越年方式→暦年方式の移行シーズンを含む)の優勝回数は、ナシオナル11回、ペニャロール6回、ダヌービオ3回、デフェンソール1回となっており、2強による支配は21世紀に入った現在も続いている。

2000シーズンから2002シーズンにはリーグ3連覇を果たした。2005年にはグラン・パルケ・セントラルの改修工事が行われ、国有のエスタディオ・センテナリオを使用する機会が減少した。フアン・ラモン・カラスコ監督が率いた2010-11シーズンは2シーズンぶり43回目の優勝を飾った。アルゼンチン人のマルセロ・ガジャルド監督が率いた2011-12シーズンにはペニャロールとのクラシコでダブルを達成して2連覇を果たした。

コパ・リベルタドーレスでは、2000年以降、ブラジルやアルゼンチンの優位が続いており、ウルグアイのクラブの上位進出は減ってきている。そんな中、2009年のナシオナルはグループリーグを首位で通過すると、決勝トーナメント1回戦(不戦勝)、準々決勝(対パルメイラス(ブラジル))にも勝利し、優勝した1988年大会以来、21年ぶりとなる準決勝進出を果たした。準決勝では、フアン・セバスティアン・ベロンを擁するエストゥディアンテス(アルゼンチン)に2試合合計1-3で敗れ、決勝進出はならなかった。

2020年2月9日、第11回さいたまシティカップで来日し、J2の大宮アルディージャとNACK5スタジアム大宮で対戦した。試合はティアゴ・ベシーノの決勝ゴールで、ナシオナルが1-0で勝利した。


ナシオナル・モンテビデオは、ウルグアイのモンテビデオを本拠地とするサッカークラブである。1899年に設立され、ウルグアイで最も成功したクラブのひとつである。ウルグアイ国内リーグのプリメーラ・ディビシオンでは最多49回優勝しており、コパ・リベルタドーレスでは3回優勝している。また、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)でも3回優勝している。

ナシオナル・モンテビデオのホームスタジアムは、エスタディオ・グラン・パルケ・セントラルである。このスタジアムは、1900年に建設され、ウルグアイで最も古いスタジアムのひとつである。収容人数は約34,000人である。

ナシオナル・モンテビデオのライバルクラブは、CAペニャロールである。両クラブは、ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地としており、ウルグアイ国内リーグのプリメーラ・ディビシオンで鎬を削っている。ナシオナル・モンテビデオとCAペニャロールの対戦は、ウルグアイ国内で最も熱狂的なダービーマッチのひとつである。

ナシオナル・モンテビデオの歴代の名選手には、ルイス・スアレス、エディンソン・カバーニ、アルバロ・レコバ、ディエゴ・ルガーノなどがいる。