トリプルAマイナーリーグ 04/19 23:35 - オマハ・ストーム・チェイサーズ v ナッシュビル・サウンズ W 2-3
トリプルAマイナーリーグ 04/18 23:35 - オマハ・ストーム・チェイサーズ v ナッシュビル・サウンズ W 1-9
トリプルAマイナーリーグ 04/17 23:35 - オマハ・ストーム・チェイサーズ v ナッシュビル・サウンズ W 5-6
トリプルAマイナーリーグ 04/16 23:35 - オマハ・ストーム・チェイサーズ v ナッシュビル・サウンズ L 10-9
トリプルAマイナーリーグ 04/14 18:05 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ W 8-4
トリプルAマイナーリーグ 04/13 20:05 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ L 3-8
トリプルAマイナーリーグ 04/13 00:35 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ W 9-0
トリプルAマイナーリーグ 04/12 22:05 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ L 0-6
トリプルAマイナーリーグ 04/11 23:45 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ L 1-6
トリプルAマイナーリーグ 04/10 17:05 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ - Postponed
トリプルAマイナーリーグ 04/09 23:45 - ナッシュビル・サウンズ v メンフィス・レッドバーズ W 15-2
トリプルAマイナーリーグ 04/07 19:05 - セントポール・セインツ v ナッシュビル・サウンズ W 1-8
トリプルAマイナーリーグ 04/06 23:35 - セントポール・セインツ v ナッシュビル・サウンズ L 3-0
トリプルAマイナーリーグ 04/05 23:35 - セントポール・セインツ v ナッシュビル・サウンズ L 6-5
トリプルAマイナーリーグ 04/04 23:35 - セントポール・セインツ v ナッシュビル・サウンズ W 3-4
トリプルAマイナーリーグ 04/03 23:35 - セントポール・セインツ v ナッシュビル・サウンズ L 6-5
トリプルAマイナーリーグ 04/02 23:35 - セントポール・セインツ v ナッシュビル・サウンズ W 4-5
トリプルAマイナーリーグ 03/31 18:05 - ナッシュビル・サウンズ v トレド・マッド・ヘンズ W 12-0
トリプルAマイナーリーグ 03/30 20:05 - ナッシュビル・サウンズ v トレド・マッド・ヘンズ L 2-4
トリプルAマイナーリーグ 03/29 20:05 - ナッシュビル・サウンズ v トレド・マッド・ヘンズ L 2-4
トリプルAマイナーリーグ 09/24 17:05 - ジャクソンビル・ジャンボ・シュリンプ v ナッシュビル・サウンズ W 4-8
トリプルAマイナーリーグ 09/23 23:35 - ジャクソンビル・ジャンボ・シュリンプ v ナッシュビル・サウンズ W 9-10
トリプルAマイナーリーグ 09/22 23:35 - ジャクソンビル・ジャンボ・シュリンプ v ナッシュビル・サウンズ W 5-8
トリプルAマイナーリーグ 09/21 23:35 - ジャクソンビル・ジャンボ・シュリンプ v ナッシュビル・サウンズ L 7-0
トリプルAマイナーリーグ 09/20 23:35 - ジャクソンビル・ジャンボ・シュリンプ v ナッシュビル・サウンズ W 4-6
トリプルAマイナーリーグ 09/19 23:35 - ジャクソンビル・ジャンボ・シュリンプ v ナッシュビル・サウンズ W 4-5
トリプルAマイナーリーグ 09/17 21:05 - ナッシュビル・サウンズ v シャーロットナイツ L 2-8
トリプルAマイナーリーグ 09/16 21:35 - ナッシュビル・サウンズ v シャーロットナイツ L 3-9
トリプルAマイナーリーグ 09/15 23:04 - ナッシュビル・サウンズ v シャーロットナイツ W 8-2
トリプルAマイナーリーグ 09/14 23:04 - ナッシュビル・サウンズ v シャーロットナイツ W 5-0

ナッシュビル・サウンズNashville Sounds)は、アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビルに本拠地をおくマイナーリーグの野球チーム。MLBのミルウォーキー・ブルワーズ傘下AAA級チームで、インターナショナルリーグに所属している。ナッシュビルが音楽業界と関連があるため「サウンズ」と名付けられた。本拠地球場はかつてサルファー・デル球場だった場所と一部重なり新設されたファースト・テネシー・パークである。1978年から2014年まではハーシェル・グリア・スタジアムを本拠地としていた。リーグ再編により、2021年シーズンはトリプルAイーストの南東地区に変わる。

1978年、AA級として創立され、1985年にAAA級となった。AAA級としてのサウンズはダブルAとしてのサウンズの歴史を凌いだ。これまでメジャーリーグ7球団の二軍を務め、23名の監督、1,000名以上の選手が在籍してきた。2013年のシーズンが終了した時点で計5,157試合を数え、2,651勝2,506敗であった。

1980年、史上優れたマイナーリーグ100球団の1つに選ばれた。2006年、パシフィックコーストリーグ史上最長の試合を記録した。パシフィックコーストリーグの歴史の中で3回の9イニング完全試合のうち2回がサウンズのピッチャーによるものである。

2005年、パシフィックコーストリーグ・チャンピオンシップの決勝3試合でタコマ・レイニアーズと対戦し優勝した。1979年にはシンシナティ・レッズのAA級として、また1982年にはニューヨーク・ヤンキースのAA級としてサザンリーグを制した。

History

1885年、ナッシュビル・アメリカンズを結成してサザンリーグに加盟し、プロ野球としての歴史が始まった。1887年、ナッシュビル・ブルーズに、1893年、ナッシュビル・タイガースに、1895年、ナッシュビル・セラフスに改名した。1897年、ナッシュビル・センテニアルズに改名してセントラルリーグに加盟、1901年、ナッシュビル・ヴォルズに改名してサザンアソシエーションに加盟した。1963年、サウス・アトランティック・リーグ(現在のサザンリーグ)に加盟し、1963年のシーズンを最後にダブルAのヴォルズは1964年から1977年まで活動を休止し、ナッシュビルには14年間プロ野球チームがなかった。

レッズ時代1回目 (1978年-1979年)

1978年、サザンリーグ、ダブルAのフランチャイズを展開し、ナッシュビル・サウンズを結成してシンシナティ・レッズと提携した。

ヴァンダービルト大学野球部ヘッドコーチのラリー・シュミトウがナッシュビルのプロ野球チーム復活に尽力し、サウンズの会長およびオーナーの1人となった。シュミトウのビジネス哲学として、チケット売り上げだけでなく関連商品や売店からも利益を上げようとした。この哲学にはエンターテイメント施設としてなど野球場として以外の娯楽施設としてのプロモーションも含まれた。地元紙で球団結成計画を知ったカントリー・ミュージック・スターのコンウェイ・トゥイッティの助力を得て、シュミトウはラリー・ゲイトリン、ジェリー・リードなどプロのアーティストの他、ナッシュビル市民をサウンズの株主とした。

ナッシュビルのダウンタウンの南にあるフォート・ネグリー・パークのセント・クラウド・ヒルのふもとにできた新球場ハーシェル・グリア・スタジアムを本拠地とした。市内に野球チームが復活したことにファンは喜び、観客数はサザンリーグの中で7シーズン1位であった。1980年、総観客数合計575,676名を記録した。チーム名は1950年代後期の、この地域をルーツとするアメリカン・カントリー・ミュージックのサブ・ジャンルであるナッシュビル・サウンドから名付けられた。サウンズのロゴと色合いはアメリカン・バスケットボール・アソシエーション(ABA)のボルチモア・クロウズになる直前のメンフィス・サウンズが1974年の1シーズンのみ使用していたものに似ていた。1976年にABAがNBAと合併した際、いくつかの著作権の放棄に合意したため、ナッシュビル・サウンズがこのロゴを問題なく使用できるようになった。メンフィス・サウンズの赤と白に青が加えられた。1978年から1997年まで使用されたナッシュビル・サウンズのロゴはナッシュビルがカントリー・ミュージック業界と関連していることを表していた。口ひげを生やした野球選手が、カントリー・ミュージックの必需品であるギターをバットに見立ててボールを打っている様子が描かれていた。また、「Sounds」の「S」をト音記号に似せ、市と音楽との繋がりを表現していた。1981年から1984年、シュミトウはアイスホッケーのマイナーリーグのナッシュビル・サウス・スターズを所有しており、ホッケーをテーマにしているがギターを振っている様子はサウンズのロゴと似ており、色合いはナショナルホッケーリーグのミネソタ・ノーススターズと似た緑と金色である。

1979年、三塁手のスキーター・バーンズ

1978年4月26日、サウンズの最初のホームゲームが行なわれ、完売の8,156名が見守る中サバンナ・ブレーブスと対戦して12対4で勝利した。当初前日の4月25日に予定されていたのだが、雨により延期されていた。球場完成に時間が必要であったため、球団はチャタヌーガ・ルックアウツと交替し、シーズン開幕戦を遠征先で行なうことを提案した。試合日、トラクターなどの重機がまだ作業を続行し、電気が点灯したのは開門5分前であった。芝生の到着が遅れ、総支配人のファレル・オウエンズが地元ラジオ局で「芝生パーティ」を行なうと語り、ファン推定50名の助けを得て試合予定前日に芝を貼った。レッズのダブルAとしての1年目である1978年、サウンズは第9位となったが、380,000名を集客して全てのマイナーリーグ野球の中でも首位となった。

翌1979年、ジョージ・シャーガー監督のもと、サウンズの開幕試合は散々なものであったが5月と6月には31試合中20試合勝利した。シーズン前半は首位であったが、その後ライバルである州内のメンフィス・チックスに次いで第2位となった。最終日、サウンズとチックスはダブルヘッダーで再び対戦し、2回ともサウンズが勝利した。2チームはその後ウエスタン・ディヴィジョン決勝戦3試合で再度試合することとなった。サウンズは2対1で優勝し、サザンリーグ決勝戦に進出してコロンバス・アストロズと対戦した。3対1でアストロズを征し、ナッシュビルが復帰後初のリーグ優勝を達成した。1979年、チームはサザンリーグ・オールスター・ゲームを主催した。リーグの選抜選手とメジャー・リーグのアトランタ・ブレーブスと対戦し、5対2でオールスターが勝利した。ナッシュビルのデュアン・ウォーカーがMVPとなった。

元々、レッズはナッシュビルに指名打者をラインナップに使用することを認めていた。しかしレッズが、指名打者を使用しないナショナルリーグに加盟したため、これを取り消した。ラリー・シュミトウ会長は最後通告として、もしシンシナティが指名打者の使用を認めないのであればサウンズは契約更新せず、新たなメジャーリーグ・チームを探すと通達した。レッズは指名打者禁止を破棄しなかったため、1979年のシーズン後に提携を解消して新たな提携先を探すことになった。シュミトウはその後5〜6球団と接触した。

ヤンキース時代 (1980年–1984年)

1980年、サウンズは初めて提携先を代え、ニューヨーク・ヤンキースと提携を開始した。1980年から1984年、監督のスタンプ・メリルとジョニー・オーツおよびほとんどが未来のメジャーリーガーとなるスティーブ・バルボニ、ドン・マッティングリー、バック・ショーウォルター、オーティス・ニクソン、ウィリー・マギー、パット・タブラー、ダン・パスクァがナッシュビルをディヴィジョンの優勝または準優勝に導いた。

1980年のシーズン前半、サウンズは1.5試合差でメンフィス・チックスに負けていた。後半は準優勝チームに14試合差をつけて優勝した。ウエスタン・ディヴィジョン決勝戦でナッシュビルは3対1でメンフィスに負けた。サザンリーグの9部門の記録がこのシーズンで塗り替えられ、投手陣は防御率、三振でリードし、スティーヴ・バルボニは得点、ホームラン、塁打でリードしていた。またグリア・スタジアムに計575,676名が訪れ、リーグの集客数の記録も塗り替えた。2007年現在、この記録は破られていない。2001年、1980年のサウンズは野球史上69番目に最高のマイナーリーグ・チームに選ばれた。

1981年、1塁手、外野手のドン・マッティングリー

1981年4月16日、ニューヨーク・ヤンキースはエキシビション・ゲームでサウンズと対戦するためナッシュビルにやってきた。満員の17,318名が見守る中、10対1でヤンキースが勝利した。ヤンキースのオーナーのジョージ・スタインブレナー、コーチのヨギ・ベラの他、選手のレジー・ジャクソン、バッキー・デント、ルー・ピネラ、ボビー・マーサー、リッチ・ゴセージ、トミー・ジョン、ジョニー・オーツが出場した。シーズン後半、メンフィス・チックスに3連勝してサウンズはウエスタン・ディヴィジョン決勝戦に進んだ。しかし5戦のリーグ決勝戦で3対1でオーランド・ツインズに負けた。1981年にサウンズに所属していたドン・マッティングリーとウィリー・マギーは後にメジャーリーグに昇格した。1985年、マッティングリーはアメリカンリーグの、マギーはナショナルリーグの最優秀選手に選ばれた。

1982年、後半に優勝したナッシュビルはディヴィジョン・プレイオフでノックスビル・ブルージェイズと対戦した。ブルージェイズを征した後、サウンズはリーグ決勝戦に進出し、ジャクソンビル・サンズと対戦した。ナッシュビルは3対1でサンズを下し、サザンリーグ決勝戦に進出し、2度目のリーグ優勝となった。

1983年4月28日、ニューヨーク・ヤンキースはエキシビション試合で再度サウンズと対戦した。ニューヨークが4得点で9回裏までリードしていたが、2アウト5得点、13,641名が見守る中、5対4でサウンズが勝利した。ヤンキースの出場者はビリー・マーチン、ヨギ・ベラ、リッチ・ゴセージ、ケン・グリフィー・シニア、デーブ・ウィンフィールド、ルー・ピネラ、ウィリー・ランドルフ。シーズン中、監督のダグ・ホムクイストは前半の成績に失望し、選手に反則や失態に対し罰金を科した。打者を塁に出した投手への10ドルから、最大延長時間を過ぎた場合の100ドルまで幅広かった。 奮起したナッシュビルは後半優勝し、ウエスタン・ディヴィジョン決勝戦に進出した。しかしサウンズは最終5戦目に7対5でバーミングハム・バロンズに負け、このシーズンは終了した。6月21日、フロリダ州オーランドへの遠征中、エリック・ピーターソンおよびチームメイトのスコット・ブラッドリー、マイク・パグリアルーロ、バック・ショーウォルターが徒歩でホテルに帰った際、ピーターソンが車にはねられた。ピーターソンの体が震え始め、ブラッドリーはピーターソンの喉に指を突っ込んで舌を飲み込まないようにさせた。ピーターソンの意識は戻ったが、足の打撲、頭部の複数の傷などにより、シーズンの後半になってから復帰した。1983年、サザンリーグ・オールスター・ゲームが再度ナッシュビルで開催された。サウンズがこのイベントを主催しただけでなく、オールスター・チームのコンペも行なった。オールスターは3対2で勝利した。

1984年のシーズン前半、1試合差で2位であった。ダブルAとしての7年間、なぜか前半は1位になれなかった。シーズン後半、プレイオフでノックスビルを征した後、6シーズン連続でナッシュビルは優勝した。ディヴィジョンのプレイオフで再度ノックスビルと対戦したが、ノックスビルが勝利を収めてシーズンは終わった。1984年5月4日、ダブルヘッダーの2試合目の7回でコロンバス・アストロズと対戦し、ピッチャーのジム・デシェイズがチームで初めてノーヒットを達成した。フォアボール3回とデッドボールによりアストロズは1点獲得したが、5対1でサウンズが勝利し、完全試合に近かった。

タイガース時代 (1985年–1986年)

1985年、捕手、外野手のボブ・メルビン

1983年、サウンズ会長ラリー・シュミトウはシーズンチケットの売り上げが5%減少し、シーズンチケット所有者の来場割合も大幅に減少し、年々業績が落ちていることに気付き頭を悩ませていた。観客減少の問題は、遠征試合を中心に地元メディアに取り上げられるのが少なくなったことが原因の1つと考えられた。球団への注目を集めるために1983年のシーズン後半、トリプルAへの参入を計画するも失敗した。1984年にも観客の減少は進み、シーズンチケットの売り上げは12%も下がり、観客総数は約20%も下がった。

1984年6月、シュミトウとチーム・オーナーはトリプルAアメリカン・アソシエーション所属のエヴァンズヴィル・トリプレッツを買収し、1985年のシーズン前、インディアナ州エヴァンズヴィルからナッシュビルへ移転させた。買収が経済的に可能であることを市内のいくつかの取引銀行に証明するため、シュミトウはトリプルAとダブルAのどちらが優位か査定調査を委託した。調査を通し、移転が賢明な決定であることが証明されたが銀行は賛成しなかった。そのため球団は銀行を代え、買収と移転を実現させた。以前のダブルAチームのサウンズが所属するサザンリーグのフランチャイズはアラバマ州ハンツビルに移転し、ハンツビル・スターズとして再スタートした。トリプレッツはナッシュビルに移転し、ダブルAとしてのナッシュビル・サウンズの歴史は終わり、トリプルAとしてのナッシュビル・サウンズの歴史が始まった。

1985年、サウンズはデトロイト・タイガースと提携してトリプルAとしての活動を始めた。7月17日、オクラホマシティ・89ersと対戦して6対0で勝利し、ブライアン・ケリーが2人目のノーヒット投手となった。イースタン・ディヴィジョンで2.5試合差で準優勝した。

1986年、68勝74敗でディヴィジョン3位となり、1978年の開業以降初めてシーズンを逃した。またこのシーズン、サウンズはアラバマ州ハンツビルで開催されたサザンリーグ・オールスター・ゲームに出場し、4対2でナッシュビルが勝利した。

レッズ時代2回目 (1987年–1992年)

1987年、サウンズはトリプルAとして再びシンシナティ・レッズと提携した。そのため多くのマイナーリーグの選手がレッズの組織であり違う階級のナッシュビルの球団で試合した。1987年のシーズンでは上位に位置していたが、シーズン半ばに主力選手を何名か失いスランプに陥り、64勝76敗で最下位となった。怪我により棄権していた三塁手のクリス・セイボーはシンシナティに昇格し、1988年、サウンズ史上初めてナショナルリーグのルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

1988年から1989年、先発投手のクリス・ハマンド

1988年、サウンズは最下位となり、シーズン終盤に多くの経営陣が交替した。1988年7月から8月の2週間で監督が5人代わった。ジャック・リンド監督でシーズン開幕したが、健康問題により離脱した。ピッチングコーチのウェイン・ガーランドが暫定的に監督を務め、その後1979年にサザンリーグ決勝戦に導いた元監督のジョージ・シャーガーが就任した。1試合で退任し、ジム・ホフが就任したが、レッズとの事務手続きを済ます前に数日で退任した。ついにテキサス・レンジャーズの元監督フランク・ルッケージが残りのシーズンのサウンズの監督を務めることとなった。ルッケージはシーズン終盤の39試合で監督し、最終的に73勝69敗となった。イースト・ディヴィジョンで2位となり、プレイオフを外れた。

1988年8月6日と7日、インディアナポリス・インディアンスと対戦し、それぞれの試合でノーヒットを分け合った。まずはインディアナポリスのランディ・ジョンソンとパット・パシロが共にノーヒットとなったが、1対0でナッシュビルが勝利した。翌日、ナッシュビルのジャック・アームストロングがノーヒットとなり、4対0でナッシュビルが勝利した。これがサウンズ史上3番目のノーヒットとなった。

1989年、74勝72敗で3位となり、1990年、86勝61敗となり、アメリカン・アソシエーション加盟後最高の勝率となった。レギュラー・シーズンでバッファロー・バイソンズと引き分け、イースト・ディヴィジョン決勝戦でサウンズが勝利した。延長18回表、クリス・ジョーンズのツーラン・ホームランで幕を閉じた。アメリカン・アソシエーション決勝戦に初進出し、オマハ・ロイヤルズと対戦して3対2で敗退した。この年、グリア・スタジアムの集客数が計605,122名となり、記録を更新した。

1991年、サウンズは1位で開幕したが、それは10日間しかもたなかった。5月1日までに球団はイースタン・ディヴィジョンで3位まで落ち、シーズン終わりまでこのままであった。ナッシュビルは毎月勝率を落とし、優勝者のバッファロー・バイソンズとは16試合差であった。ヒット、打点、得点、ホームランに導いた一塁手のテリー・リーはシーズン半ばにトリプルAオールスター・ゲームとリーグのポストシーズンのオールスター・チームに選ばれた。翌年、レッズとの提携が最後になった。67勝77敗で4位となった。

ホワイトソックス時代 (1993年–1997年)

1997年、外野手のマグリオ・オルドニェス

1993年、ナッシュビルは再度提携先を代え、シカゴ・ホワイトソックスと提携してトップ・ファームとなった。また1993年のシーズンからグリア・スタジアムに特徴的なギター型のスコアボードを導入した。ホワイトソックスとの初年度、サウンズは81勝62敗でイースト・ディヴィジョンで優勝した。リーグ決勝戦では延長戦になり、アイオワ・カブスがサウンズに勝った。ナッシュビルのリック・レニックがアメリカン・アソシエーションの年間監督賞に選ばれた。

1993年から1994年のシーズン中、サウンズは本拠地のなかったシャーロット・ナイツとして知られていたダブルAサザンリーグのナッシュビル・エクスプレスに本拠地・ハーシェル・グリア・スタジアムを2年間提供した。シャーロットがトリプルAのフランチャイズとして契約することとなり、ダブルAの球団は本拠地を失ったのである。サウンズのオーナーのラリー・シュミトウは臨時の本拠地としてグリア・スタジアムの提供を申し出た。サウンズとエクスプレスの2球団が1つの球場を使用することとなったため、エクスプレスはサウンズが遠征中にホームゲームを行なった。『ベースボール・アメリカ』誌は、ナッシュビルが2球団の本拠地となったことを「マイナーリーグ野球の10大ハプニング」の第1位に選んだ。1995年、エクスプレスはノースカロライナ州ウィルミントンに本拠地を構え、ポートシティ・ルースターズと改名した。

1994年、サウンズは83勝61敗となった。またリーグ決勝戦に2年連続で出場した。1年目、ナッシュビルはニューオーリンズ・ゼファーズに3連勝し、リーグ決勝戦に出場した。5戦のシリーズでインディアナポリス・インディアンズが3勝し、ナッシュビルに勝った。1994年のシーズン半ばにナッシュビルはトリプルAオールスター・ゲームを主催した。サウンズの選手ではレイ・ダーラム、ドリュー・デンソン、スコット・ラフコーンが選ばれたが、ラフコーンが故障者リスト載ったため、スティーブ・シュレンクに交替した。ダーラムはStars of Stars を獲得し、アメリカン・アソシエーションのオールスター出場選手で最も価値のある選手であったことが証明された。

1995年、サウンズは68勝76敗で、優勝チームとは20試合差がついた。元々1994年にホワイトソックスのダブルAバーミングハム・バロンズに所属していたマイケル・ジョーダンは1995年のシーズンにフリーエージェントでサウンズと契約した。しかしMLBストライキが起こり、代替選手になったりスト破りのレッテルを貼られることを避けて野球選手をやめた。

1996年、前年より勝率を上げ、77勝67敗となった。そこそこ良い勝率にもかかわらず、ナッシュビルはプレイオフの出場権を確保することができなかった。リック・レニック監督はリーグの年間監督賞を受賞し、ピッチャーのスコット・ラフコーンは13勝でリーグ首位となった。ラリー・シュミトウはこのシーズンを最後に主要株主でなくなった。シュミトウが野球では収益が上げられないと感じていた頃、ナッシュビルはNFLのフランチャイズとしてテネシー・タイタンズを迎える準備をしていた。1996年オフ、シュミトウはNFLのテネシー・タイタンズの買収に成功し、アメリスポーツのアラン・ゴードン社長にチーム全権を売却した。翌年、ナッシュビルは74勝68敗となり、シーズン優勝できなかっただけでなくポストシーズンからも外れた。シーズン中およびシーズン後のオールスター・チームに外野手マグリオ・オルドニェスが選ばれ、リーグの年間ルーキー賞およびMVPを受賞した。

パイレーツ時代 (1998年–2004年)

2003年、2004年、二塁手、遊撃手のフレディ・サンチェス

1997年、サウンズが所属していたアメリカン・アソシエーションが解散し、この期間、サウンズは残りのトリプルA2リーグのうち1つに吸収された。この結果、サウンズはパシフィックコーストリーグ(PCL)に加盟した。またフランチャイズは新たなメジャーリーグ球団との提携を獲得し、ピッツバーグ・パイレーツと提携しトップ・ファームとなった。1978年の設立以来初めてロゴ、配色、ユニフォームを2年かけて段階的に新調した。

1998年、パイレーツと提携して最初のシーズンでサウンズは67勝76敗で地区最下位であった。1999年、前年より躍進し、80勝60敗となったが2位で終わった。サウンズの二塁手マット・ハワードは打席数(1:18.2)ごとの守備率 (0.982)と三振回数の少なさでリーグをリードしていた。ピッチャーのジミー・アンダーソンは勝率 (0.846, 11–2)でPCLをリードしていた。

2000年、ナッシュビルは63勝79敗となり地区で最下位であった。2001年、オールスターにも選ばれたことのある元サウンズの内野手マーティ・ブラウンが25人目の監督としてサウンズに復帰した。元サウンズ選手のサウンズ監督就任はこれが初めてのことであった。サウンズは64勝77敗で3位となり、プレーオフから外れた。外野手タイク・レッドマンは三塁打10回でアイオワのロス・グロードと共にリーグ首位となった。6月30日、レッドマンはサウンズ初のサイクル安打打者となった。2002年、72勝71敗でディヴィジョン3位となった。

2003年4月7日のシーズン初試合でアルバカーキ・アイソトープスと対戦した際、右投げのジョン・ワズディンがナッシュビル・サウンズ史上初の完全試合投手となった。4対0でサウンズが勝利し、PCL史上2番目の9イニング完全試合となった。この年、トレント・ジェウェット監督はサウンズを81勝62敗に導いた。イースタン・ディビジョンで優勝し、パシフィックコーストリーグに加盟後初めてポスト・シーズンに出場することになった。ナッシュビルはアメリカン・カンファレンス決勝戦でアルバカーキと対戦し、3勝1敗で勝利した。ベスト・オブ・ファイブ・チャンピオンシップでサクラメント・リバーキャッツと対戦し、3連敗した。

2004年、63勝79敗で地区最下位となり、フランチャイズ契約が終わることになった。シーズン初頭、 ジェイソン・ベイがピッツバーグに復帰する前にナッシュビルで4試合出場した。翌シーズン、彼は新人王に選ばれた。ナッシュビルに属したことのある選手でこのような賞を受賞したのはこれで2人となった。2004年5月21日、キャッチャーのJ・R・ハウスは2001年のレッドマンに続きサウンズ2人目のサイクル安打打者となった。

ブルワーズ時代 (2005年–2014年)

2005年、6ヶ所目の提携先としてミルウォーキー・ブルワーズと契約した。ナッシュビルとミルウォーキーの特別な繋がりはないのだが、2005年から2014年、ミルウォーキー・ブルワーズの傘下にナッシュビル・サウンズが入っていた時期に重なり、ナショナルホッケーリーグのナッシュビル・プレデターズの傘下にミルウォーキー・アドミラルズが入っている。ブルワーズと提携した2005年、サウンズは1982年以来初めてリーグ優勝し、幸先の良いスタートとなった。フランク・クレンブラズ監督のもと、リッキー・ウィークス、プリンス・フィルダー、ネルソン・クルーズ、コーリー・ハートなど将来有望な選手が集まり、シーズン終了まで2日を残してアメリカン・ノース・ディヴィジョンで優勝した。カンファレンス戦でオクラホマ・レッドホークス相手に3試合中2勝した。タコマ・レイニアーズ相手に3連勝してリーグ優勝した。

2006年7月15日、サウンズのピッチャーであるカルロス・ビヤヌエバ、マイク・マイヤーズ、アレック・ザンウォルトはチーム史上5度目のノーヒットで2対0でメンフィス・レッドバーズに勝利した。5月5日から6日にかけて、ニューオーリンズ・ゼファーズ相手に2日がかりで8時間7分かけて24回まで戦った。この記録はパシフィックコーストリーグ史上最長となり、いくつかのチームやリーグの記録はこれにより破られた。元々の記録は1909年6月8日、サンフランシスコ・シールズ対オークランド・オークスの試合の24回、3時間半であった。それから数年後の1911年9月10日、サクラメント・ソロンズ対ポートランド・ビーバーズはこれと同じ記録となった。サウンズは76勝68敗でシーズンを終え、アメリカン・ノース・ディヴィジョンにおいてアイオワ・カブスと同じ記録で第1位であった。サウンズはディヴィジョン決勝戦でカブスと対戦して9戦中7勝して優勝し、ポスト・シーズンに入った。カンファレンス決勝戦でサウンズはラウンドロック・エクスプレスに3戦中2敗で敗れた。

2007年、ライアン・ブラウン三塁手

2007年、ブルワーズのヨバニ・ガヤルド、ライアン・ブラウンが参加した。5月25日にメジャー・デビューしたブラウンは、サウンズ史上3人目のルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。6月25日、マニー・パーラはラウンドロック・エクスプレス戦でサウンズ史上2度目の完全試合をもたらし、パシフィックコーストリーグ史上3度目の9回完全試合となった。パシフィックコーストリーグ年間監督賞を受賞したクレンブラズ率いるサウンズはアメリカン・ノース・ディヴィジョンで3年連続優勝し、89勝55敗でチーム最高の勝率0.618でシーズン終了した。カンファレンス決勝戦でニューオーリンズ・ゼファーズに1勝3敗で負けた。

2008年6月14日、アメリカ合衆国中西部で起こった大洪水により、サウンズ対アイオワ・カブズの試合は観客なしで行われた。アイオワ州デモインのダウンタウン中が強制的に避難させられ、球団は市から許可を得て試合が行われたが、プリンシパル・パークに観客を入れることに許可は得られなかった。ファンを近寄らせないために照明もスコアボードも作動させず、球団ウエブサイトでも延期と伝えただけでローカルニュースでも試合を取り上げなかった。パシフィックコーストリーグの理事ブランチ・バレット・リッキーはこれまでなかったことだと語った。8月、ニューオーリンズ・ゼファーズ戦とのシーズン残り3試合がハリケーン・グスタフにより中止になった。この年の59勝81敗、勝率0.421はサウンズ史上2番目に低いものとなった。

2008年10月30日、親会社のアメリスポーツはチームを本澤正裕、スティーブ・ポズナー、フランク・ウォードらによるニューヨークの投資ファンドMFPベースボールに売却した。パシフィックコーストリーグ経営副部長のジョージ・キングは売却において球団をナッシュビルに留めておくことがリークにとっての最大条件であったと語った。2009年2月26日、メジャーリーグ、パシフィックコーストリーグ双方からこの取引の最終合意を得た。MFPは新球場の場所をダウンタウンで探しつつ、グリア・スタジアムの大幅な改装のため約250万ドルを投資した。のちにキングはサウンズの新たな総支配人となった。

2009年、日本でもプレー経験がある元メジャー選手ドン・マネーが監督に就任し、75勝69敗となった。前年より勝率も高く、シーズンのほとんどで第1位だったにもかかわらず、2試合差で州内のライバルであるメンフィス・レッドバーズに敗し優勝を逃した。2010年度は77勝67敗であったがディヴィジョン最下位の第4位であった。

2011年、当時ブルワーズの選手であった斎藤隆が左太もも裏を痛め、調整のためサウンズで登板した。4月28日に調整登板した際左脇腹を痛めて降板した。6月23日、再度登板し、7月2日、メジャーに復帰した。2011年7月10日、サウンズの右翼手のケイレブ・ギンドルはサウンズ史上3人目のサイクルヒットを達成した。8月20日、オマハ・ストームチェイサーズ戦でサウンズの中堅手のローガン・シェーファーはトリプル・プレイを達成し、全米のメディアの注目を集めた。最初シェーファーのグローヴから跳ね返ったがなんとか最初のアウトを取った。その後二塁手のエリック・ファリス、一塁手マット・ギャメルに次々とボールが渡りトリプル・プレイとなった。71勝73敗でディビジョン3位となった。

2012年、新監督マイク・ゲレーロのもと、67勝77敗でディビジョン2位となった。2013年、57勝87敗で2008年の59勝81敗のさらに下をいき、サウンズ史上最低の勝率となった。しかしピッチャーのジョニー・ヘルウェグはパシフィックコーストリーグの年間投手賞を受賞し、ポスト・シーズンでパシフィックコーストリーグのオールスター・チームに参加した。

2014年、パシフィックコーストリーグの再編計画により、サウンズはアメリカン・カンファレンスの北ディヴィジョンから南ディヴィジョンに移籍した。このディビジョンには他にメンフィス・レッドバーズ、ニューオーリンズ・ゼファーズ、ラウンドロック・エクスプレスがいる。2014年、マイナー・リーグのベテラン監督リック・スウィートが新監督となった。オフシーズン中、サウンズ、ナッシュビル市、テネシー州はグリア・スタジアムに代わり、2015年完成の新球場設立に合意した。

2014年8月27日、グリア・スタジアムでの最終試合を行ない、サクラメント・リバーキャッツに8対5で負けた。捕手のルーカス・メイは彼にとってこの試合唯一の登板で、フルカウントで空振り三振で試合終了した。観客数は11,067名で2010年以来の完売、2007年以来最大の観客数であった。76勝67敗でディヴィジョン第2位で優勝チームのメンフィス・レッドバーズとは2.5試合差であった。当時ブルワーズの有望選手であったジミー・ネルソンはサウンズで開幕を迎え、満場一致まであと1票でパシフィックコーストリーグの投手賞を受賞した。

アスレチックス時代 (2015年-2018年)

ファースト・テネシー・パークでウォーミング・アップをするサウンズの選手

2014年9月18日にオークランド・アスレチックスと2015年から2018年までの4年契約を結んだ。これを機にシーズン前にイメージ・カラー、ロゴ、ユニフォームを一新した。イメージ・カラーは当初ブロードウエイ・バーント・オレンジ、サンバースト・タン、ネオン・オレンジ、キャッシュ・ブラックが採用されたが、ファンからの意見を参考にして以前と同じ赤と黒に戻し、アクセントとしてプラチナ・シルバーを追加した。数種類あるロゴにはナッシュビルの「ミュージック・シティ」というニックネームに因み、ギター、ギターのピックや音孔などが使用されている。

2015年のシーズンはダウンタウンに新設されたファースト・テネシー・パークで開幕し、コロラドスプリングス・スカイソックスとの試合で完売の10,459名の観客の前で10回3対2でサウンズが勝利した。始球式ではカール・ディーン市長が投球した。ナッシュビルを舞台にした連続ドラマ『ナッシュビル』主演のチャールズ・エステンが開場前のテープカットで『私を野球に連れてって』を、試合前には国歌『星条旗』を歌った。

2015年5月7日、シカゴ・カブスの和田毅が左太ももの張りのため傘下のアイオワ・カブスの選手としてファースト・テネシー・パークでサウンズとの対戦で先発し、14日、カブス本拠地のアイオワ州デモインで再度サウンズと対戦した。5月9日および11日、テキサス・レンジャーズの藤川球児が右脚付け根付近の張りのため傘下のラウンドロック・エクスプレスの選手としてファースト・テネシー・パークでサウンズと対戦した。

レンジャーズ時代 (2019年-現在)

2018年9月20日にレンジャーズと2019年から2022年までの4年契約を結んだ。