アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/27 00:00 3 [3] サン・ロレンソ女子 v リベール・プレート女子 [6] W 3-0
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/22 00:30 3 [6] リベール・プレート女子 v サン・ロレンソ女子 [3] W 1-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/16 23:00 8 [13] クラブ・バンコ・プロビンシア女子 v サン・ロレンソ女子 [3] W 1-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/16 00:30 8 [6] リベール・プレート女子 v サン・ロレンソ女子 [3] W 2-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/10 23:00 7 サン・ロレンソ女子 v ラ・マタンサ国立大学女子U19 W 3-0
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/08 23:00 7 [2] サン・ロレンソ女子 v フェロ・カリル・オエステ女子 [8] W 3-0
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/02 23:30 6 [2] サン・ロレンソ女子 v アルゼンチン女子U19 [15] W 3-0
アルゼンチン リーガ・ウィメン 03/02 00:00 6 [2] サン・ロレンソ女子 v ベレス・サルスフィエルド女子 [10] W 3-0
アルゼンチン リーガ・ウィメン 02/27 00:00 5 [1] ボカ・ジュニアーズ女子 v サン・ロレンソ女子 [2] L 3-0
アルゼンチン リーガ・ウィメン 02/18 22:00 4 [10] ナウティコロサリオ女子 v サン・ロレンソ女子 [2] W 0-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 02/17 23:00 4 [2] ソンデル・オブ・ロザリオ女子 v サン・ロレンソ女子 [3] W 0-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 02/04 23:00 3 [6] サンノゼ女子 v サン・ロレンソ女子 [3] W 0-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 02/03 00:00 3 [7] ヴィラ・ドーラ女子 v サン・ロレンソ女子 [4] W 1-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 01/28 22:00 2 [4] サン・ロレンソ女子 v Tucuman de Gimnasia 女子 [14] W 3-1
アルゼンチン リーガ・ウィメン 01/28 00:30 2 [3] サン・ロレンソ女子 v CEF5バレーボール・ラ・リオハ女子 [1] L 2-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 01/21 23:30 1 [11] エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ女子 v サン・ロレンソ女子 [2] W 0-3
アルゼンチン リーガ・ウィメン 01/19 00:00 1 ギムナシア・ラ・プラタ女子 v サン・ロレンソ女子 W 0-3
アルゼンチン コパ・オスミタ女子 12/16 00:00 - エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ女子 v サン・ロレンソ女子 W 0-3
アルゼンチン コパ・オスミタ女子 12/13 00:00 - サン・ロレンソ女子 v ボカ・ジュニアーズ女子 W 3-0
アルゼンチン コパ・オスミタ女子 12/12 00:30 - クラブ・バンコ・プロビンシア女子 v サン・ロレンソ女子 W 0-3
アルゼンチン コパ・オスミタ女子 12/10 00:00 - サン・ロレンソ女子 v フェロ・カリル・オエステ女子 W 3-2
アルゼンチン コパ・オスミタ女子 12/08 00:30 - サン・グレゴリオ女子 v サン・ロレンソ女子 W 1-3
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 11/09 00:30 - サン・ロレンソ女子 v リベール・プレート女子 L 1-3
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 11/03 00:30 - リベール・プレート女子 v サン・ロレンソ女子 L 3-1
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 10/27 00:30 - フェロ・カリル・オエステ女子 v サン・ロレンソ女子 W 0-3
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 10/20 00:30 - サン・ロレンソ女子 v ベレス・サルスフィエルド女子 W 3-0
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 10/12 00:00 - GELP女子 v サン・ロレンソ女子 L 3-0
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 09/29 00:30 - サン・ロレンソ女子 v ムポル女子 W 3-0
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 09/26 00:30 - ラ・マタンサ国立大学女子U19 v サン・ロレンソ女子 W 1-3
アルゼンチン ディビシオン・デ・オノール女子 09/22 00:30 - 国立ラ・プラタ大学 v サン・ロレンソ女子 W 0-3

クルブ・アトレティコ・サン・ロレンソ・デ・アルマグロ (スペイン語: Club Atlético San Lorenzo de Almagro) は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのボエド地区を本拠地とするサッカークラブである。

History

誕生

サレジオ会のロレンソ・マッサ(英語版)神父

きっかけはアルマグロ地区の教会近くの通りでサッカーに興じていた少年たちのグループと一人の神父の出会いであった。ある日いつものようにサッカーをしていたグループの一人が車にひかれかけた。それを目撃した教会のロレンソ・マッサ神父が、毎週日曜日のミサに参加することを条件に少年たちに教会の敷地を提供した。これにより、少年たちは教会内という安全な場所で思う存分サッカーができるようになった。神父は同時に、読み書きなど生活する上で必要になることを少年たちに学ばせた。

こうして生まれた出会いと交流がやがて正式なクラブ設立に発展する。ほどなくロレンソ・マッサ神父同席のもとクラブの名称決定をテーマに最初の集会が開かれた。少年たちの大半はアルマグロ地区の出身で、彼らの間ではいつからか名乗っていたLos Forzosos de Almagro(アルマグロの猛者たちの意)をそのまま正式名称にすることで合意ができていたが、神父は暴力的な響きがあることから異議を唱えた。再考を余儀なくされた少年たちが様々な名前を出し合った結果、次に神父への感謝と敬意からその名を冠したSan Lorenzo(聖ロレンソの意)が選ばれた。ところが神父は恐れ多いこととしてこれにも難色を示した。しかし結局、殉教者の聖ロレンソ(ローマのラウレンティウス)及びサンロレンソの戦いに由来する名前とするならばよいとして同意が得られた。最後に少年たちのリーダー的存在であったフェデリコ・モンティが「アルマグロの」を意味するde Almagroを付け加えることを主張、一同これに異存なくクラブの正式名称が決まった。

1908年4月1日のこの日、San Lorenzo de Almagroは誕生した。

黎明期

クラブとしてスタートを切ったサン・ロレンソは、1911年資金不足からいったんその活動を停止してしまう。しかし1913年末には創設メンバーのフェデリコ・モンティらが資金を工面して再開させた。1914年には現在のアルゼンチンサッカー協会、Asociación del Fútbol Argentino (AFA) の源流であるAsociación Argentina de Football (AAF) の2部リーグに参加し優勝、1915年には早くも1部に登りつめた。翌年の1916年には最初のスタジアム、ガソメトロをボエド地区に所有する。以後サン・ロレンソはボエドのクラブとして発展していくこととなる。

まだアマチュアであった当時はクラブ数の急増による新規リーグの設立や、既存リーグを取り仕切る協会と参加クラブの対立による分裂もあり、複数の協会とそのリーグが並び立つことが多かった。そのような中サン・ロレンソは、1919年にリーベル・プレート、インデペンディエンテ、ラシン・クラブ、ベレス・サルスフィエルドらと共にAAFから分裂したAsociación Amateur de Football (AAmF) のリーグに参加、1923年に初優勝すると、翌1924年にも優勝し連覇を達成。続く1925年、1926年は2位に甘んじたが、1927年にはAAFとAAmFの再統合により成立したAsociación Amateur Argentina de Football (AAAF) のリーグで再び栄冠に輝いた。

発展期

1931年、主要なクラブがAAAFから離れLiga Argentina de Football (LAF) を組織、プロリーグを開始した。所属クラブの許可がなければ他クラブへ移籍できないという規定に縛られていた選手たちがその自由を求めて前年にストライキの実施を宣言したが、問題の解決策を巡って主要クラブとその他のクラブが対立したのが原因であった。残ったクラブはAsociación de Football Amateurs y Profesionales (AFAP) という名称でアマチュアリーグを継続した。

サン・ロレンソは現在共に5大クラブに数えられる4クラブや他の有力クラブと意見を同じくし、初年度からプロリーグに参入。1年目はボカ・ジュニアーズに振り切られて2位、続く2年目は5位に終わったものの、タイトルを獲得したリーベル・プレートらと終盤まで優勝争いを演じた。そして3年目となる1933年、最終節でボカを上回りプロ化後初優勝を飾る。残すところ3節の時点で迎えた直接対決で2-0の勝利を収めたサン・ロレンソは首位に立った。しかしその次の節でCAインデペンディエンテに敗れ勝ち点48のままとなり、ボカがラヌースに勝利して勝ち点49としたため再び順位が入れ替わった。最終節でボカが勝利した時点でサン・ロレンソの優勝はなくなるところであったが、ボカはリーベルと戦い1-3の敗北、一方サン・ロレンソは1-0でCAチャカリタ・ジュニアーズに勝利した。プロ初タイトルは最後に1ポイント逆転して獲得という劇的なものであった。

1935年にはLAFとAFAPが歩み寄り、Asociación del Football Argentino (AFA) という名で統合された。再スタートを切ったリーグでも幾度となく優勝争いに絡んだサン・ロレンソであったが、2度目の優勝は初優勝から13年後の1946年、AFAがその名称のFootballを現在のFútbolにスペイン語化する年まで待たなければならなかった。2位ボカに4ポイント差をつけての優勝であった。そして、この年にクラブは、スペインとポルトガルに渡り、欧州ツアーを行なっている。これはクラブの歴史の中でも最も輝かしい出来事の1つである。サン・ロレンソはレアル・マドリードと対戦し敗れたが、その後、FCバルセロナ、スペイン代表、ポルトガル代表との試合に勝利した。スペインの新聞は、「サン・ロレンソは世界最高のチームだ」と讃えた。そしてバルセロナはレネ・ポントーニにオファーを出したが、ポントーニはアルゼンチンを離れたくなかったので断った。(バルセロナは代りにリーベル・プレートのディ・ステファノにオファーを出した。)しかし、レイナルド・マルティノはヨーロッパに留まり、ユベントスと契約して、スターとなった。

3年後の1949年10月31日、ロレンソ・マッサ神父が天に召される。67歳の誕生日を11日後に控えた日であった。

3度目の優勝はまたしても13年後の1959年。前年度得点王のホセ・サンフィリッポを擁するサン・ロレンソは快進撃を見せ、2位ラシン・クラブに7ポイント差をつけての優勝と圧倒的強さであった。サンフィリッポはこの年も31ゴールを挙げ得点王に輝くと、翌年、翌々年も同タイトルを手にし、4年連続得点王の快挙を成し遂げた。サン・ロレンソはこの優勝により翌1960年に開始されたコパ・リベルタドーレス第1回大会への出場を果たしたが、準決勝でウルグアイのペニャロールに敗れ敗退した。

プロ化後36年間のリーグ優勝は5大クラブに独占された。サン・ロレンソもその一つとして存在感を示した。

黄金期

四つのタイトルを獲得し多くの記録を残した1968年から1974年にかけてがクラブの黄金期とされている。1967年から1985年までのリーグでは、最終年を除く各年度メトロポリターノとナシオナルという二つの大会が行われた。その大会方式はシーズンにより異なったが、サン・ロレンソはまずブエノスアイレス州とサンタフェ州の計22チームが参加した1968年のメトロポリターノを制した。この大会は最初に11チームずつに分かれてホーム・アンド・アウェー (H&A) のグループリーグを戦い、次に各グループ上位2チームが中立地で一発勝負の決勝トーナメントを戦うという二部構成であった。またグループリーグでは、各チームが別のグループに所属するそれぞれのライバルチーム(サン・ロレンソの場合はウラカン)ともH&Aで戦い、その結果も各グループの順位に反映されるという変則的なものであった。グループAに入ったサン・ロレンソは22試合を14勝8分0敗で終え1位通過を果たすと、続く決勝トーナメントでは準決勝でグループB2位のリーベル・プレートと戦い3-1で勝利、決勝でもA2位通過でB1位通過のベレス・サルスフィエルドを破って勝ち上がってきたエストゥディアンテスと戦い2-1で退けた。これはプロ化後のアルゼンチンリーグ史上初の無敗優勝であった。

1972年にはこちらもリーグ史上初となる同一年度の2大会制覇を成し遂げた。ブエノスアイレス州とサンタフェ州の計18チーム参加によるH&Aのリーグ戦メトロポリターノを制したサン・ロレンソは、全国の26チームで争われたナシオナルでも優勝。前述のメトロポリターノ1968とほぼ同様の大会方式で行われたこの大会では、グループAの13試合を10勝3分0敗で勝ち点23とし1位通過、グループB1位通過のボカ・ジュニアーズの勝ち点22を上回り即決勝進出を決めると、A2位でボカと準決勝を戦い勝ち上がってきたリーベルを1-0で破り、リーグ記録となっている最多2度目の無敗優勝を達成した。

1974年にも全国から36チーム参加、グループリーグを経て決勝ラウンドという流れで行われたナシオナルを制した。

低迷期

黄金期の後には低迷期が待っていた。1975年からの数年は順位も二桁になることが多く結果を出せなくなっていたが、これはクラブの資金繰りが急速に悪化していたのが原因であった。サン・ロレンソは借金に借金を重ねて何とか持ちこたえている状態で、給料未払いとなっていた元所属選手たちから次々に裁判を起こされる事態にまでなっていた。そして1979年12月、いよいよ限界に達したクラブは資産の売却を迫られた。1916年から60年以上に渡って所有していたスタジアムとその土地を失った。

1980年のシーズンからは他クラブのスタジアムを借りて転々とホームゲームを行わざるを得なくなった。当然思うような成績が残せなくなり、この年は降格ラインぎりぎりのところで1部に踏みとどまったものの、翌年の1981年にはすでにピークを過ぎた選手たちで構成されたチームで戦いついに2部へ降格した。18チーム参加で17位以下が降格というメトロポリターノで、サン・ロレンソは勝ち点28の16位で最終節を迎えた。相手は勝ち点27で17位のアルヘンティノスであった。フェロ・カリル・オエステのスタジアムで行われたホームゲームは引き分け以上で残留が決まる試合であったが、サン・ロレンソは前半に訪れたペナルティキックのチャンスを逃したばかりかアルヘンティノスに1ゴール許し、後半の反撃も実らずそのまま0-1で敗れた。サン・ロレンソは5大クラブ初の2部降格という屈辱を味わった。

復興期

1982年、前年度に降格が決定したサン・ロレンソは2部のプリメーラBを戦った。そこではスタートダッシュに成功し2節を残して優勝、1年で1部復帰を果たした。この年のサン・ロレンソではサポーターの後押しにも注目が集まった。舞台が2部であり試合数も全42試合と1部のそれより10試合以上少なかったにもかかわらず、チケット販売枚数で2位のボカ・ジュニアーズに20万枚以上の差をつけて唯一の100万枚越えを記録した。ハイライトは6節のティグレ戦。リーベル・プレートのスタジアムで行われたこの試合のチケットは7万4千48枚も売れ、7万5千人近くの観客を集めた。この時の入場者数は、1978年に同国で開催されたワールドカップの決勝アルゼンチン代表対オランダ代表の数字に次ぐもので、リーグの1試合当たり観客動員数では1部・2部を問わず記録になっている。

1983年、すぐさま1部に復帰したサン・ロレンソはその年のメトロポリターノで優勝したCAインデペンディエンテから1ポイント差の2位につけ、その後も時おり優勝争いに顔を出しながら着実に歩みを進めていった。1993年には失っていたホームスタジアムをボエド地区の旧スタジアムからそう遠くないところに再び所有した。

そして1995年、21年ぶりに1部で優勝する。1990年に始まったアペルトゥーラ(前期)・クラウスーラ(後期)の短期リーグで、当年のクラウスーラを制した。バンビーノことエクトル・ベイラに率いられたサン・ロレンソは、オスカル・ルジェリ、パウロ・シーラスらを擁し、ヒムナシア・ラ・プラタとタイトル争いを繰り広げながら最終節に突入、勝ち点29で首位のヒムナシアはホームにインデペンディエンテを迎え、勝ち点28で2位のサン・ロレンソはアウェーでロサリオ・セントラルとの対戦であった。同時刻に始まった試合は、ヒムナシアが前半の1失点を挽回できずに0-1で敗れたのに対し、サン・ロレンソは後半コーナーキックから値千金のゴールを奪い1-0で勝利した。ロサリオに駆けつけた3万人にも及ぶサン・ロレンソのサポーターは、久しぶりの栄冠を前に抑えが利かなくなり後半44分にピッチへ乱入、その時点で試合が打ち切られる事態になりながらの優勝であった。

新世紀

21世紀最初の大会クラウスーラ2001を制したのは、ファブリシオ・コロッチーニ、ギジェルモ・フランコ、レアンドロ・ロマニョーリ、ベルナルド・ロメオらを擁するサン・ロレンソであった。しかしそのスタートは波乱に満ちていた。開幕前、チームに内紛が勃発し監督のオスカル・ルジェリがその職を投げ出してしまったのである。サン・ロレンソは最初の2節を代理監督のもと1勝1分で凌ぎ、3節から正式な後任にマヌエル・ペレグリーニを迎えて問題の収束を図った。チリ人監督に率いられたチームは初采配となったラシン・クラブ戦を落としたが、その後は8節でリーベル・プレートに敗れるまで3勝1分、9節以降は最終節まで全勝という快進撃を見せた。サン・ロレンソは15勝2分2敗で勝ち点47を獲得、最終2節をいずれも落とした2位リーベルに6ポイントの大差をつけてタイトルを手にした。この時の優勝も記録付きであった。勝利数及び勝ち点は短期リーグで最多。また9節からの連勝は翌期のアペルトゥーラ2001第3節バンフィエルド戦で引き分けるまで続き最終的に13連勝、リーグでの最多連勝記録となっている。

同年にはクラブにとって初の国際タイトルとなるコパ・メルコスールも獲得。フラメンゴとの決勝第1戦はアウェーで0-0の引き分け、第2戦のホーム試合は同国経済が崩壊状態にあったことを受けて翌2002年1月に持ち越されたが、こちらも90分では1-1と決着がつかずPK戦にもつれ込んだ。サン・ロレンソは一人目のアルベルト・アコスタに続き二人目まで失敗したものの、ゴールキーパーのセバスティアン・サハが好セーブを連発、4-3で制しての優勝であった。

クラウスーラ2007第18節優勝決定試合

2002年、ペレグリーニはクラブに2つのタイトルを残してリーベルに去った。後任監督にルベン・インスアを迎えたサン・ロレンソでは、下部組織上がりのゴンサロ・ロドリゲス、パブロ・サバレタらが成長していた。そしてコパ・スダメリカーナ第1回大会を制覇する。コパ・メルコスールの後継大会であり、コパ・メルコノルテとの統合により規模が拡大されたものであったが、決勝ではコロンビアのアトレティコ・ナシオナルと対戦し第1戦のアウェーは4-0で圧勝、第2戦ホームでの試合は0-0で引き分け、2年連続で国際タイトルを獲得した。

2007年、母国ではそれまでリーベル一筋であったラモン・ディアスを新監督に招聘。毎夏5大クラブ間で争われるプレシーズンマッチでは1勝も上げられなかったが、公式戦のクラウスーラではアグスティン・オリオン、ホナタン・ボティネッリ、ガストン・フェルナンデス、エセキエル・ラベッシらの活躍により、1節を残して優勝を決めた。最終節にも勝利したサン・ロレンソは勝ち点45、2位のボカ・ジュニアーズは39であった。

百周年

2008年4月1日、クラブは100歳の誕生日を迎えた。数千人のサポーターが前日の夜からボエド地区の旧スタジアムがあった場所に集まり、0時になるとともにその日を祝った。現在のスタジアムで予定されていた当日の記念イベントは豪雨により順延となったものの、翌2日には無事に行われた。100周年後初の試合はその次の日の3日、コパ・リベルタドーレスのグループリーグでアウェーでのクルゼイロ戦であったが、サン・ロレンソは1-3で敗れた。その後グループ2位通過で決勝トーナメントに進み準々決勝まで勝ち上がったが、優勝したリーガ・デ・キトと当たりホーム、アウェーともにスコアは1-1、PK戦に突入し3-5で敗退した。記念すべき年に際しアンドレス・ダレッサンドロやディエゴ・プラセンテなど名のある選手を補強したが、5大クラブで唯一持っていないこのタイトルを獲得することはできなかった。

一方リーグでは、リベルタドーレスと並行して行われたクラウスーラで4位。主力選手と確執があった監督のラモン・ディアスは17節アウェーでのオリンポ(スペイン語版)戦に敗れて優勝の可能性がほぼなくなったのを機にチームを去り、ダレッサンドロやプラセンテも半年所属したのみでシーズン終了後に移籍した。続くアペルトゥーラでは、前年ボカを率いてリベルタドーレス制覇を成し遂げたミゲル・アンヘル・ルッソを新監督に迎えた。ホームで行われた1節のティグレ戦を0-1で落とし、またその直前に開幕したコパ・スダメリカーナでもアルヘンティノスに敗れて初戦敗退となったサン・ロレンソであったが、2節からは結果を出し5節から10節にかけては連勝。その時点で2位のティグレに勝ち点5差をつけて首位に立っていた。その後失速したため勝ち点39を獲得するに留まったが、1位で全19節を終了。しかし同勝ち点にティグレとボカの2チームが並んでいたため、得失点差等が考慮されないリーグ規定により3チームで優勝決定戦に突入した。第1戦のティグレ対サン・ロレンソはベレス・サルスフィエルドのスタジアムで行われサン・ロレンソが2-1で勝利。第2戦のサン・ロレンソ対ボカはラシン・クラブのスタジアムで行われボカが3-1で勝利。第3戦のボカ対ティグレもラシンのスタジアムで行われティグレが1-0で勝利。この結果、3チームがまたしても同勝ち点で並んだが、ここでは得失点差が考慮されるためボカに優勝を譲った。

100周年の年は無冠に終わったが、翌2009年のリベルタドーレス出場権を獲得している。

近年

2013-14シーズンはプリメーラ・ディビシオンの前期リーグで優勝した。リベルタドーレス2014では決勝へ進出し、決勝でナシオナルを2戦合計2-1で下し、クラブ史上初の南米クラブ王者となった。その結果、モロッコで行われるFIFAクラブワールドカップ2014出場を決め、この大会で準優勝した。