チェコ 1部リーグ | 05/04 16:00 | 1 | スラヴィアプラハ vs バニーク・オストラヴァ | - | View | |
チェコ 1部リーグ | 05/11 15:30 | - | スパルタプラハ vs スラヴィアプラハ | - | View | |
チェコ 1部リーグ | 05/15 17:30 | - | スラヴィアプラハ vs ヴィクトリア・プルゼニ | - | View | |
チェコ 1部リーグ | 05/18 15:00 | - | スロヴァコ vs スラヴィアプラハ | - | View | |
チェコ 1部リーグ | 05/26 14:00 | - | スラヴィアプラハ vs ムラダーボレスラフ | - | View |
チェコ 1部リーグ | 04/28 13:00 | 30 | [9] フラデツ・クラーロベー v スラヴィアプラハ [2] | W | 1-2 | |
チェコ 1部リーグ | 04/21 13:00 | 29 | [2] スラヴィアプラハ v シグマオロモウツ [8] | D | 2-2 | |
チェコ 1部リーグ | 04/14 16:00 | 28 | [3] ヴィクトリア・プルゼニ v スラヴィアプラハ [2] | L | 1-0 | |
チェコ 1部リーグ | 04/06 16:00 | 27 | [2] スラヴィアプラハ v ボヘミアンズ1905 [10] | W | 2-1 | |
チェコ 1部リーグ | 03/30 17:00 | 26 | [4] スロヴァコ v スラヴィアプラハ [2] | W | 1-3 | |
チェコ 1部リーグ | 03/17 14:00 | 25 | [2] スラヴィアプラハ v スロヴァンリベレツ [8] | W | 3-0 | |
UEFAヨーロッパリーグ | 03/14 17:45 | 4 | スラヴィアプラハ v ACミラン | L | 1-3 | |
チェコ 1部リーグ | 03/10 14:00 | 24 | [2] スラヴィアプラハ v FKテプリツェ [9] | W | 4-0 | |
UEFAヨーロッパリーグ | 03/07 20:00 | 4 | ACミラン v スラヴィアプラハ | L | 4-2 | |
チェコ 1部リーグ | 03/03 17:00 | 23 | [1] スパルタプラハ v スラヴィアプラハ [2] | D | 0-0 | |
チェコカップ | 02/28 17:00 | 3 | スラヴィアプラハ v スパルタプラハ | L | 2-3 | |
チェコ 1部リーグ | 02/25 14:00 | 22 | [2] スラヴィアプラハ v パルドゥビツェ [12] | W | 3-0 |
Total | Home | Away | |
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Matches played | 59 | 32 | 27 |
Wins | 42 | 26 | 16 |
Draws | 10 | 4 | 6 |
Losses | 7 | 2 | 5 |
Goals for | 134 | 88 | 46 |
Goals against | 50 | 23 | 27 |
Clean sheets | 27 | 16 | 11 |
Failed to score | 5 | 0 | 5 |
SKスラヴィア・プラハ(チェコ語: Sportovní klub Slavia Praha)は、チェコ・プラハを本拠地とするサッカークラブ。1892年に設立され、同じくプラハをホームタウンとするACスパルタ・プラハとの対戦はプラハダービーとして知られており、勢力を二分している。
1892年11月2日、プラハのヴィノフラディ地区に住む医学生らによって、学生間でのスポーツ活動を増やすために設立された。設立当初は、主にサイクリングが主体のスポーツクラブだったが、1896年にサッカー部門を設立した。その年の3月25日、ACスパルタ「と初めての試合を行い、5-0で大勝した。4日後には、ACスパルタ・プラハとも試合を行い、0-0でのスコアレスドローだったが、ここから両者のライバル意識が始まった。1905年、スコットランドからジェイク・マッデンを監督に招聘し、当時最先端のサッカーを披露していたスコットランド流の戦術がスラヴィア・プラハにも持ち込まれた。
マッデンは、後に25年間も続くクラブ黄金期の基盤を形成し、国内試合169試合で134勝を、国際試合では429試合304勝を記録した。1930年、マッデンはスラヴィア・プラハの監督を退き、18年後の1948年に82歳で死去した。
1934 FIFAワールドカップでは、スラヴィア・プラハは8人の選手をチェコスロバキア代表に送り込んだ。クラブ2度目の黄金期は、ヨーゼフ・ビカンの獲得から始まった。ビカンが中心となったスラヴィア・プラハは、戦争により満足に戦力を揃えられないながらも、1940年から国内リーグ4連覇を果たした。しかし、1950年代に突入すると、徐々にクラブの成績は後退し始め、1960年まで実に2度の2部リーグ降格を味わった。
チョスロバキア分離後の1996年、48年ぶりに14回目となるリーグ優勝を果たした。この1995-96シーズン、スラヴィア・プラハは国際舞台でも成功を収め、UEFAカップではベスト4に進出。クラブ所属選手が4人選出されていたチェコ代表はUEFA EURO '96で準優勝を果たした。
1996-97シーズンから2005-06シーズンまでに合計5回、UEFAチャンピオンズリーグ予選出場権を得ていたが、いずれも予選敗退に終わり、本大会出場はできなかった。しかし、2007-08シーズンのCL予選3回戦では、2戦合計3-1でアヤックス・アムステルダムに勝利を収め、クラブ史上初となる本大会出場を決めた。本戦のグループステージではアーセナルFC、FCステアウア・ブカレストそしてセビージャFCと同組になった。スラヴィア・プラハはこのグループを1勝3分2負の成績で終え、グループ3位となったことで、UEFAカップベスト32へ回った。また、2006年にはエデン・スタディウムの大規模な改修を行い、観客席を21,000人まで拡大した。
2007-08シーズンと2008-09シーズン、クラブは再びチェコ1部リーグ優勝を果たし、CL予選出場権を手にするも、前者の予選ではACFフィオレンティーナに、後者ではモルドバのFCシェリフ・ティラスポリに敗れた。翌2009-10シーズンは大きく力を落とし、リーグ戦7位に終わった。
2010年の秋、クラブが1億1200万チェコ・コルナもの負債を抱えていることが明るみに出た。これにより、選手の多くが冬の移籍市場でクラブを離れ、その中の1人、ペトル・トラップは、実に3ヶ月もの間給料が未払いだったことを公表した。2011年11月5日のチェコ・カップ準決勝SKシグマ・オロモウツ戦では、クラブの首脳陣に抗議するために、試合中にサポーターの一部がピッチに雪崩れ込んだ。
2015年9月にはCEFC中国エネルギーがクラブを買収、2018年11月には中国中信集団公司とシノボ・グループがクラブのオーナーに就任した。