スケジュール

韓国KBO 04/26 09:30 - 斗山ベアーズ vs ハンファイーグルス - View
韓国KBO 04/27 08:00 - ハンファイーグルス vs 斗山ベアーズ - View
韓国KBO 04/28 05:00 - ハンファイーグルス vs 斗山ベアーズ - View
韓国KBO 04/30 09:30 - ハンファイーグルス vs SSGランダース - View
韓国KBO 05/01 09:30 - ハンファイーグルス vs SSGランダース - View
韓国KBO 05/02 09:30 - ハンファイーグルス vs SSGランダース - View

結果

韓国KBO 04/25 09:30 - [8] ハンファイーグルス v KTウィズ [9] L 0-9
韓国KBO 04/24 09:30 - [8] ハンファイーグルス v KTウィズ [9] L 1-7
韓国KBO 04/23 09:30 - [7] ハンファイーグルス v KTウィズ [10] L 6-9
韓国KBO 04/21 05:00 - [6] サムスンライオンズ v ハンファイーグルス [7] L 5-3
韓国KBO 04/20 08:00 - [7] サムスンライオンズ v ハンファイーグルス [6] L 1-0
韓国KBO 04/19 09:30 - [5] サムスンライオンズ v ハンファイーグルス [7] W 1-6
韓国KBO 04/18 09:30 - ハンファイーグルス v NCダイノス - PPT.
韓国KBO 04/17 09:30 - [5] ハンファイーグルス v NCダイノス [3] L 3-4
韓国KBO 04/16 09:30 - [5] ハンファイーグルス v NCダイノス [2] W 7-4
韓国KBO 04/14 05:00 - 起亜タイガース v ハンファイーグルス L 5-2
韓国KBO 04/13 05:00 - 起亜タイガース v ハンファイーグルス L 11-9
韓国KBO 04/12 09:30 - [1] 起亜タイガース v ハンファイーグルス [5] L 8-4

ハンファ・イーグルス(朝: 한화 이글스、英: Hanwha Eagles)は、KBOリーグに所属する大韓民国のプロ野球チームである。大田広域市をホームタウンとし、本拠地は同市内にある大田ハンファ生命イーグルスパーク。親会社は韓国有力の企業グループの一つハンファグループ。

History

草創期(1985年 - 1987年)

韓国プロ野球の草創期、大田(テジョン)市(当時は忠清南道管轄)を本拠地として申し出る球団がなかったため、ソウルを本拠地として希望していたOBベアーズ(現:斗山ベアーズ)が、1984年のシーズンが終わるまで、大田をホームとする新球団を創設する条件で、3年間大田に本拠地を構えていた。その間、KBOは忠清南道天安市出身の金升淵会長が総帥の韓国火薬に大田を本拠地とする新球団創設を打診。韓国火薬がこれを受諾して、1984年シーズンオフ、新球団を創設。球団の名前につける企業名は、一般人に怖い印象を与える社名の韓国火薬の代わりに、ファンにもっと親密に近づけるように、グループ傘下の食品会社である「ピングレ」(朝鮮語で「スマイル」の意)に決定。ニックネームは一般公募を通じて一番の得票を記録した「イーグルス」とし、新球団「ピングレ・イーグルス」(빙그레 이글스)の船出となった。

KBOと既存の6球団はピングレのリーグ参加を容易にするため、保有選手を供出することに加え、1984年と1985年のドラフトで、それぞれ10枚の特別指名権を与えた。これでピングレ・イーグルスは当時ロサンゼルス・オリンピック野球韓国代表出身選手を含む、当時のドラフトの目玉になっていた大卒新人選手を多く入団させて、チームを形作ることまでは難なく進んでいた。そして、ピングレ・イーグルスは、新球団のリーグ参加による衝撃を緩和するため、1年間の準備期間を経て、1986年シーズンからリーグ戦に参入させることにした。

しかし、各チームの保有枠から外れた選手や新人主体のチームは当時最下位の代名詞であった青宝ピントゥスと最下位争いをすることに。結局、球団元年の1986年は最下位、1987年は青宝を抜いて7チーム中6位で最初の2年を過ごした。

飛躍と挫折(1988年 - 1992年)

2年間の最下位争いの後、初代監督の裵聖瑞(ペ・ソンソ)との契約の終了に合わせて、OBベアーズと三星ライオンズでそれぞれチームを優勝に導いた金永徳(キム・ヨンドク)を優勝請負人として監督に招いた。金永徳が監督を務めた1988年シーズンからチームは、その前とは違う戦いぶりを披露。シーズン序盤から上位争いに食い込み、当時全盛期を謳歌していた首位のヘテ・タイガースに0.5ゲーム差の2位で前期リーグを終了、世間を驚かせた。後期リーグは3位で終了して、プレイオフで後期リーグ2位の三星と対決。そこまで2年連続韓国シリーズに進出して、ポスト・シーズンの経験の豊富な三星の優位との予想を覆し、3連勝で三星を一蹴。また波乱を起こしながら、一軍参入3年目で韓国シリーズ進出を決めた。ヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは3連敗で一気に王手をかけられたが、それから第4、5戦をものにして、シリーズを第6戦まで持ち込んだ。結局第6戦に敗れて、2勝4敗で敗退した。

翌年のシーズンは1シーズン体制に制度が変更。リーグ戦の1位チームに韓国シリーズ直行の権利が与えられる制度の下で、ピングレは当時「ダイナマイト打線」と呼ばれた豪快な打線をバックにシーズン序盤から首位を快走。2位のヘテに5.5ゲーム差をつけて首位でレギュラーシーズンを終了。2年連続で韓国シリーズ進出に成功した。そして、プレイオフを勝ち越してシリーズにあがったヘテとのリターンマッチになったシリーズの第1戦で李康敦(イ・ガンドン)がヘテのエース宣銅烈から1回裏先頭打者ホームランを打ったのを合図に打線の爆発で宣銅烈を打ち崩し、シリーズの緒戦をものにした。そこまでの韓国シリーズで緒戦を勝ったチームは全部優勝したが、1回裏に4点を挙げて勢いを保ったまま迎えた2回戦の2回表に当時2年目のショート、張鍾熏(チャン・ジョンフン)が決定的エラーを犯して逆転負けを喫し、そのまま4連敗。また、準優勝に甘んじた。

1990年は、シーズン中盤まで首位を走るも、2年間の準優勝の後遺症で故障者が続出。9月以降失速して3位でレギュラーシーズンを終了。準プレイオフで4位の三星に2連敗で敗退した。

故障者の復帰と、年間ホームランと打点の新記録を樹立し韓国を代表する巨砲として成長を遂げた張鍾熏を中心とする打線の活躍により、1991年はレギュラーシーズン2位でプレイオフに直行した。ここで、ロッテ・ジャイアンツを下して勝ち上がった三星を3勝1敗で退けて、韓国シリーズに進出。しかし、3度目の挑戦となった今度の相手もまたヘテ・タイガースであった。ヘテはこの年レギュラーシーズンで2位以下に大きな差をつけながら、首位を独走して韓国シリーズに進出した。それで、誰もがヘテの圧倒的有利と予想した。シリーズが始まると、予想通りピングレは第2戦まで終始圧倒され2連敗で本拠地に帰ってきた。

本拠地に場を移して開かれた第3戦で先発の宋津宇(ソン・ジヌ)が8回2死まで一人の走者も許さない投球を演出しながら、1対0でリード。この試合はレギュラーシーズンでもなかった完全試合への期待で、韓国中の野球ファンは騒然となっ た。しかし8回の3人目の打者が打った平凡なファウルフライを当時のライト守備についていた李重和(イ・ジュンファ)が落球すると、その打者に四球を許し完全試合を逃した。結局、ここから宋津宇が打たれ出してその試合も1対4で逆転負けを喫した。翌日の第4戦も宣銅烈の前に手も出せないまま完敗して3度目の挑戦は1勝も挙げられないまま終わった。

1991年も準優勝に終わったものの、翌年の1992年は最多勝と最優秀救援を席巻した宋津宇と韓国プロ野球史上初の年間40本塁打を記録した張鍾熏を軸にシーズン始めから首位を独走し、9月初旬には早くも韓国シリーズ進出を確定。最終的には、史上初の年間80勝を挙げた。なお、この年は宣銅烈がデビュー以来初めて負傷で戦線を離脱するなど2勝止まりだったのが影響して、レギュラーシーズン2位ヘテが準プレイオフを勝ち抜いてきた同3位のロッテに最終戦の第5戦までもつれ込む接戦の末敗退する結末でロッテがシリーズの相手になった。この時点まではついにピングレに初優勝のチャンスが到来するかと思われた。しかし、レギュラーシーズンで7勝止まりだったロッテの投手、朴東煕(パク・ドンヒ)がレギュラーシーズンとは見違える好投を披露してピングレ打線を封じ、このシリーズは誰も予想しなかったロッテの4勝1敗の優勝で幕を下ろした。

沈滞期(1993年 - 1998年)

1993年シーズンは故障者続出であったが、特に2年連続でホームランと打点の年間記録を更新した張鍾熏の負傷と不振は致命的であった。そして、新戦力の方でも前年のドラフトで大卒、高卒でそれぞれ目玉になっていた具臺晟と盧長震(ノ・ジャンジン)を取りながら、具臺晟は故障、盧長震はプロの厳しいトレーニングについていけず、チームを離脱した。 結局、チームも5年ぶりに5位以下へ転落して、金永徳監督がこのシーズンオフ限りで、韓国シリーズでの4度の失敗とこの年の不振の責任を取って、契約切れをもって退団した。

翌年の1994年は親会社の韓国火薬の総帥一家の相続を巡る争いで、それまでチームの冠会社だったピングレが系列から分離。しかし、プロ野球チームの保有はそのまま親会社の韓国火薬が続けることになった。そして、ピングレ側の分離を以て韓国火薬もハンファに名称を変更。それにしたがってチーム名も「ハンファ・イーグルス」(한화 이글스)に変わり、ユニフォームやロゴも一新された。そして、金永徳監督の時にヘッド・コーチを務め、またロッテ・ジャイアンツを2度の優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)を後任監督として招いた。この年は、序盤の不振を克服して、レギュラーシーズンはヘテと同率3位で終了。準プレイオフでは対戦成績で勝ち越したヘテの方に開幕権を譲ったが2連勝で通過。4度の韓国シリーズの中で3度の失敗のリベンジを少しながら果たした。しかし、プレイオフでは太平洋ドルフィンズに3連敗となった。

1995年からは、1990年前後を支えた選手たちに衰えが見え始め、1992年入団の鄭珉哲と1993年入団の具臺晟を除くと、それを補う新戦力はなかなか登場せず、世代交代に苦労してチーム戦力は下降の一路をたどるようになった。1996年は、16勝24セーブで5冠(MVP、最多勝、最優勝防御率、勝率、最優秀救援)のタイトルを取った具臺晟の大車輪の活躍によりレギュラーシーズン3位で準プレイオフに進出したが、4位の現代ユニコーンズに敗退した。そして、1997年・1998年は2年連続7位に止まり、1998年KBOオールスターゲームによる中断期間に姜秉徹監督を解任するという、球団史上初のシーズン途中監督交代という事態に至った。

初優勝(1999年)

1998年シーズン途中、姜秉徹監督を解任してヘッドコーチであった李煕洙(イ・ヒス)を監督代行として昇格させたが、7位でシーズンを終了。しかし、1998年シーズンオフ、後任の候補を探すも適任の人物が見つからず、そのまま李煕洙を正式監督として座らせ1999年シーズンに臨んだ。もともとプロでの監督経験がなかった李煕洙が2年連続7位のチームを受け継いで、監督代行を務める間目立った動きを見せなかったこともあって、1999年シーズンの展望は良い方ではなかった。

しかし、この年は2年間不振に陥った宋津宇の復活とともに、鄭珉哲、李相睦(イ・サンモク)の先発3本柱が立ち直って、8球団の中で一番安定した投手ローテーションを確立。その後を抑えの具臺晟が締めるパターンで、先発3人は揃って14勝以上、具臺晟は8勝26セーブ。それに1998年から始まった外国人選手の導入でこの年獲得したジェイ・デイビスとダン・ローマイヤーは、それぞれ3割30本塁打30盗塁とシーズン45ホームランの活躍を見せ、主砲の張鍾熏も28ホームランで復活。これらの活躍で夏場からはLGツインズとマジックリーグ2位の座を置いて熾烈な争いを繰り広げた。

そして、9月中旬、現代との3連戦で全勝したことから快進撃が始まり、LGを退けてマジック・リーグ2位の資格でプレイオフに進出。プレイオフでもドリーム・リーグ1位でリーグ全体でも1位の成績を収めた斗山ベアーズを4連勝で破り、7年ぶりの韓国シリーズ進出を確定した。ロッテとの韓国シリーズでは、先発3本柱の安定した投球で4勝1敗で優勝した。

2000年代前半(2000年 - 2004年)

1999年の韓国シリーズ制覇は、李煕洙監督の能力によるものというよりはすべてがよい方向に進んだ結果というのが大方の見方だった。結局、優勝の動力だった先発3本柱の方は、鄭珉哲は1999年シーズンオフに日本の読売ジャイアンツへ移籍、李相睦は故障でリタイアして、宋津宇一人だけ先発ローテーションを守るなか、外国人のデイビスとローマイヤーも怠慢な態度を見せ始め、前年優勝した勢いは完全に消滅。チームは7位に逆戻り、結局、もともと多くを期待されなかった李煕洙監督は2000年限りで退団した。

2000年シーズンオフ、自律野球を標榜し、投手分業制のシステムでLGを優勝に導いた李廣煥(イ・グァンファン)監督を招いた。李廣煥監督は赴任初年度にチームを準プレイオフに導くも公式戦では勝率5割を切り負け越した。斗山との準プレイオフでも敗退。2002年は6位、監督が球団OBの柳承安(ユ・スンアン)に変わった2003年は5位、2004年は7位と成績は低迷した。

2000年代後半・金寅植監督時代(2005年 - 2009年)

金寅植監督が就任した2005年は開幕前の低評価を覆し、レギュラーシーズン4位で準プレーオフに進出し、3位のSKワイバーンズを破りプレーオフに進出したものの斗山に3連敗した。2006年は高卒ルーキー柳賢振(リュ・ヒョンジン)の活躍が話題を呼び、レギュラーシーズン3位で準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜き、前回の1999年以降、7年ぶりに韓国シリーズへ進出した。しかし、韓国シリーズでは三星に1勝4敗1引分で敗退した。2007年も上位争いに食い込み公式戦3位で3年連続でポストシーズン進出に成功。準プレーオフで4位の三星に勝って、3年連続でプレーオフに進出に成功したが、今度は2位の斗山に3連敗で敗れ、韓国シリーズ優勝はまたお預けとなった。2008年はオリンピックによる中断期間以降調子を落とし4位争いからも脱落。レギュラーシーズン5位で4年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。

2009年は金寅植監督がWBC(ワールドベースボールクラシック)の韓国代表監督を務め準優勝という好成績を残したものの、肝心の自身の率いるチームは投手陣の世代交代失敗や、主砲金泰均の長期離脱もあり、6月から最下位を独走するようになった。そして長年チームを支えた宋津宇、鄭珉哲の2人のベテラン投手も引退を表明し、一軍リーグ参入初年度の1986年以来となる23年ぶりの年間最下位を記録するなど、転機の1年となった。また金寅植監督もこの年限りで退任し、新監督には大田出身ながら現役時代や指導者の経歴を通して一度もピングレ/ハンファに在籍したことのない韓大化が就任した。だが11月には金泰均・李杋浩の2名の主軸打者が日本プロ野球へ、12月には抑え役を務めていたブラッド・トーマスがメジャーリーグへとそれぞれ移籍し、大きな戦力流出となった。

2010年代(1)・韓大化監督時代(2010年 - 2012年)

韓大化監督初年度だが戦力的に苦しいとされた2010年は、投打ともに選手層の薄さが目立ち、球団史上初の2年連続最下位に終わった。この年限りでベテラン左腕の具臺晟も退団し、チームには1999年の優勝を知る者がいなくなり、更なる世代交代が進むことになった。2011年はLGと同率6位となり最下位から脱出した。オフには金泰均が復帰、韓国人初のメジャーリーガー・朴賛浩が入団した。2011年12月より本拠地の大田ハンバッ運動場野球場の大規模改修工事が開始され、2012年4月の主催試合はすべて準本拠地の清州総合運動場野球場で開催された。2012年は序盤から低迷し続けたことで、シーズン途中の8月28日、韓大化監督の辞任が発表され、韓容悳(ハン・ヨンドク)首席コーチが監督代行として残りの試合の指揮を執ったが2年ぶりの最下位に終わった。

2010年代(2)・金應龍監督時代(2013年 - 2014年)

2012年10月、かつてヘテ、サムスンを指揮し、10度の韓国シリーズ優勝を成し遂げた金應龍(キム・ウンニョン)監督が、71歳という高齢にもかかわらず監督に就任した。同年12月、2006年よりエースとして活躍してきた柳賢振がポスティングによりロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。2013年シーズンは韓国プロ野球最多の開幕13連敗を記録し、2年連続最下位となった。しかも同年よりNCダイノスの加入により9球団制となったため、韓国プロ野球史上初の9位でもあった。低迷からの脱出を図るため、同年オフシーズンには鄭根宇、李容圭の韓国代表選手2名をFAで獲得した。だが2014年も3年連続最下位に終わった。

2010年代(3)・金星根監督時代(2015年 - 2017年)

2014年10月、SKを3度の韓国シリーズ優勝に導くなど名監督として知られる金星根監督が就任し、裵英洙、權奕、宋恩範のFA選手と契約するなど補強に努めた。2015年は6位となり、2012年から2014年までの3年連続最下位からは脱出した。2016年は7位だった。2017年5月21日に金星根監督が辞意を表明し、23日に正式に受理され、李相君投手コーチが監督代行に就任した。同年は8位で韓国プロ野球タイ記録(2003~2012年のLG)の10年連続ポストシーズン進出失敗となった。

2010年代(4)・韓容悳監督時代(2018年 - 2019年)

2017年10月、ハンファのOBで2012年に一時期監督代行を務めた韓容悳監督が就任した。2018年はレギュラーシーズン3位で11年ぶりにポストシーズンへ進出したが、準プレーオフでネクセン・ヒーローズに敗れた。2019年は9位だった。

2020年代(1)・韓容悳監督-崔元豪監督代行時代(2020年)

2020年6月7日、球団新記録の14連敗を記録し最下位に低迷していたため、韓容悳監督が辞任し崔元豪二軍監督が監督代行に就任した。6月12日、韓国プロ野球タイ記録の18連敗となり、6月14日に勝利し連敗記録が終わった。2020年は6年ぶり、10球団制では初の最下位(10位)だった。

2020年代(2)・スベロ監督時代(2021年 - 2023年5月11日)

2020年11月27日、初の外国人監督としてカルロス・スベロ監督の就任が発表された。2021年は2年連続最下位だった。

2022年は3年連続最下位、しかもチーム史上最多の96敗を記録した。2023年5月11日の試合終了後、監督交代となった。

2020年代(3)・崔元豪監督時代(2023年5月12日 - )

2023年5月12日より崔元豪監督が就任した。同年は9位で、3年連続最下位から脱出した。