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クラブ・ウニベルシダ・ナシオナル(スペイン語: Club Universidad Nacional A.C.)は、メキシコの首都メキシコシティに本拠地を置くサッカークラブである。リーガMX(1部)に所属している。プーマス・デ・ラ・UNAM(Pumas de la UNAM)、UNAMプーマス、または単にUNAMプーマスという呼称で知られている。

History

アマチュア時代(1930年代-1940年代)

20世紀最初の10年間には、国立自治大学の学生にもっとも人気のあったスポーツはアメリカンフットボールだったが[]、次第にサッカーもキャンパス内に浸透していった。1927年、大学で学生部長を務めていたルイス・チコ・ゴエルネはプロサッカーリーグの地区協会に嘆願書を送り、初めてプーマスのプリメーラ・フエルサ(メキシコ連邦区アマチュアリーグ)加盟を試みたが、CDマルテが選ばれてプーマスの嘆願書は拒否されている。1940年代までに、グスタボ・バス・プラーダ学生部長はレアル・クルブ・エスパーニャの選手だったロドルフォ・ムニョス(ブッチ)に将来的なプーマスの代表としての役割を課した。ムニョス新監督は学部生や教員などからなる新チームを組織し、学内での大会で好成績を残した。ムニョスは13年間監督を務め、後のプロクラブとしての成功の礎を築いた。

セグンダ初参戦(1950年代)

1943年にはメキシコで全国リーグ(リーガ・マジョール)が開始され、1954年8月にはセグンダ・ディビシオン(当時2部、現3部)のメンバーとして受け入れられた。加盟はナボール・カリージョ学生部長と後援者のギジェルモ・アギラール・アルバレスの支援で達成されたものであり、アルバレスは学生部長によってクラブの会長に任じられた。9月12日に行なわれたCFモンテレイ戦がプロクラブとしての初試合となった。わずか3年間でのプロクラブ転向は簡単ではなく、クラブを再構築できるようにいったんセグンダ・ディビシオンを離脱するという特別措置を要求した。プロ化の過程は1年以内に完了し、エクトル・オルティス監督が就任して経営陣が組織された。

プリメーラ初昇格(1960年代)

セグンダ・ディビシオン加盟から8年後の1961-62シーズン終了後、ついにプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を果たした。昇格プレーオフではクルブ・カタルーニャ・デ・トレオンと対戦し、シウダ・ウニベルシタリアでの試合に5-1で勝利した。スタンドで昇格を祝っていたサポーターもピッチに乱入し、選手を肩車して昇格を祝った。試合翌日にはイグナシオ・チャベス学生部長からも祝福の言葉を受け取った。この時の監督はオクタビオ・ビアルであり、選手にはオメーロ・ビジャール、ラウール・チャネス、ホセ・アントニオ・ロドリゲス(ラ・エスパトゥーラ)、アルフレード・エチャバッリ、ホセ・ルイス、カルロス・グティエレス、アルフレード・センテーノ(ティト)、ホセ・ルイス・レデスマ(エル・チャンゴ)、アントニオ・サマーノ、ホルヘ・ガイタン、ギジェルモ・バスケス、ホセ・ルイス・ゴンサーレス(ラ・カラーカ)、ロレンソ・ガルシア、カルロス・カルデロン・デ・ラ・バルカ、マヌエル・ロドリゲス(マノロ)、エドムンド・ペレス(エル・ポリ)、グスタボ・クエンカ(エル・ガト)などが在籍していた。この昇格を受け、クラブの経営陣は新世代の選手育成のために現代的な下部組織を設立することを決定した。

初のリーグ優勝(1970年代)

アルフォンソ・ポルトゥガル監督が率いた2年間を経て、スペイン人のアンヘル・スビエタ監督がプーマスを率いた。スビエタ監督は外国人選手にも門戸を開いたが、それまでと同じように下部組織出身者にも出場機会を与えた。1970年代前半にはクラブ史に残る3人の外国出身選手が在籍していた。ペルー人のフアン・ホセ・ムニャンテ、セルビア人のベリボール・ミルティノヴィッチとカビーニョであり、彼ら3人はミゲル・メヒア・バロン、エクトル・サナブリア、アルトゥーロ・バスケス・アジャラ、ホセ・ルイス・ロペス、レオナルド・クエジャールなどのメキシコ人選手たちとうまく組み合わさった。1974-75シーズンにはコパ・メヒコとカンペオン・デ・カンペオーネスで優勝。1976-77シーズンにはクラブ史上初のリーグ優勝を果たした。1976年にはウーゴ・サンチェスがデビューし、1981年までにリーグ戦183試合に出場して99得点を挙げている。

国際カップ戦での躍進(1980年代)

1980年にはCONCACAFチャンピオンズカップで初優勝し、1980-81シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝。このシーズンはウーゴ・サンチェスがプレーした最後のシーズンとなり、1981年にスペインのアトレティコ・マドリードに移籍した。1981-82シーズンにはコパ・インテラメリカーナとCONCACAFチャンピオンズカップを戦い、CONCACAFチャンピオンズカップでは2度目の優勝を果たした。この時代にはプーマスの革新的でダイナミックなサッカーが全国的に認知されるようになった。1977年から1981年に監督を務めたミルティノヴィッチは、1983年にメキシコ代表監督に就任して1986 FIFAワールドカップで指揮を執り、1990年代半ばにも代表監督を務めるなど、メキシコ代表監督として歴代2位の104試合を指揮した。ミルティノヴィッチは現役のプーマス所属選手やプーマス所属経験のある選手を多数招集し、ウーゴ・サンチェス、フェリクス・クルス・バルボーサ、ラファエル・アマドール、ラウール・セルビン、ミゲル・エスパーニャ、マヌエル・ネグレーテ・アリアス、ルイス・エンリケ・フローレスなどが代表に招集された。この時代のプーマスの選手たちは、プーマスのサポーターだけでなくメキシコサッカー界全体に大きな喜びを与えた。

停滞期(1990年代)

1990-91シーズンにはリギージャ決勝でライバルのクラブ・アメリカを破って優勝した。この時期には新世代の選手が登場し、ルイス・ガルシア、ホルヘ・カンポス、クラウディオ・スアレス、アントニオ・サンチョ、イスラエル・ロペス、ブラウリオ・ルーナ、ラファエル・ガルシア、ハイメ・ロサーノ、ヘラルド・トラードなどが在籍していた。しかし1990年代はクラブの歴史の中でもっとも不成功に終わった期間のひとつであり、また選手の輩出も低調だった。

再度の成功(2000年代)

2000年3月にはウーゴ・サンチェスが監督に就任し、短期間監督を務めた。ミゲル・メヒア・バロン監督を挟み、2001年9月に再びウーゴ・サンチェスが監督に就任すると、クラウスーラ2004ではプーマスを13年ぶりのリーグ優勝に導いた。プーマスはアペルトゥーラ2004でも優勝し、大会形式が2ステージ制に変更されてから初めて2連覇したクラブとなった。2004年にはカンペオン・デ・カンペオーネスでも優勝し、またレアル・マドリードが主催するトロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノ(プレシーズンの親善大会)ではヨーロッパ外に本拠地を置くクラブとして初めて優勝。2005年のコパ・スダメリカーナでは決勝まで勝ち進み、決勝のボカ・ジュニアーズとの試合はPK戦にもつれ込んだが、論議を醸したロベルト・アボンダンシェリのPKストップの前に敗れた。2005年から2006年にかけての国内リーグでは、クラウスーラ2005で16位、アペルトゥーラ2005で16位、クラウスーラ2006で10位、アペルトゥーラ2006で16位と低迷し、2006年には降格の危機に瀕した。しかし、2006年7月にリカルド・フェレッティが監督に就任すると、フェレッティ監督はチームに安定性と統制をもたらして降格を回避し、アペルトゥーラ2007では3年ぶりにリギージャ決勝に進出したが、アトランテFCに2試合合計1-2で敗れている。クラウスーラ2009では再びリギージャ決勝に進出し、CFパチューカを延長戦の末に破って6回目の優勝を果たした。2010年7月にはフェレッティ監督が退任してギジェルモ・バスケス監督が就任。クラウスーラ2011はレギュラーシーズン8位だったが、リギージャ準々決勝ではクルス・アスル(レギュラーシーズン1位)を、準決勝ではモンテレイ(レギュラーシーズン2位)、決勝ではモナルカス・モレリア(レギュラーシーズン3位)を破り、7回目の優勝を果たした。

UNAMプーマスは、メキシコシティの国立自治大学(UNAM)を拠点とするサッカーチームです。プリメーラ・ディビシオン(メキシコ1部)に所属しています。

チーム名の「プーマス」は、UNAMの校章であるピューマに由来しています。クラブカラーは青と白です。

ホームスタジアムは、エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオです。収容人数は72,004人です。

UNAMプーマスは、1941年に創設されました。1962年にプリメーラ・ディビシオンに昇格し、1977年に初優勝を果たしました。その後、1980年、1981年、1991年、2004年、2009年に優勝しています。

CONCACAFチャンピオンズリーグには、1980年、1982年、1989年、2005年、2007年に出場し、1980年と1982年に優勝しています。

クラブのレジェンドとしては、ウーゴ・サンチェス、ハビエル・アギーレ、ホルヘ・カンポスなどが挙げられます。

UNAMプーマスは、メキシコで最も成功したクラブの一つです。国内リーグで7回、CONCACAFチャンピオンズリーグで2回優勝しています。また、2000年には、FIFAクラブ世界選手権で3位に入賞しています。