アリゾナ・コヨーテズ(Arizona Coyotes)は、アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックスを本拠としているナショナルホッケーリーグ(NHL)所属のプロアイスホッケーチームである。

History

このチームはWHA(ワールドホッケーアソシエーション)のウィニペグ・ジェッツ(Winnipeg Jets)としてチーム発足し、1979年にNHLへ加盟した。その後、1996年に南部へ移転し、フェニックス・コヨーテズと改名した。

1972年に、WHAはマニトバ州ウィニペグにフランチャイズの設立権を与えた。当時NHLは、多くのホッケーフランチャイズを渇望する都市の要望に応えて、ジョージア州アトランタ、カリフォルニア州オークランドおよびロサンゼルスなどを加え(カナダは1都市のみ)、16チームに拡大したばかりであった。他方、WHAはオタワ、ケベックシティ、ウィニペグ、エドモントンやその後カルガリー、トロントの各都市にプロホッケーチームをもたらしたのである。

ジェッツは、「ザ・ゴールデン・ジェッツ」の通り名を持つボビー・ハル (Bobby Hull) の加入により最初の興隆期を迎え、WHAチャンピオンの証、アブコ・カップを3度獲得した。大抵のWHA有力チームは1979年までに解散の憂き目に会うが、ジェッツは強さを維持し続け、NHLへと吸収される。ただし、チームの得点源の6人のうち3人までを失い、NHL21チームのうちドラフト指名順位は18巡目とされた。NHL加入直後のジェッツは2シーズン連続で21チーム中最下位に終わる。特に1980-1981シーズンは80試合でわずか9勝しか挙げられなかった。1981年、ゼネラルマネージャーのジョン・ファーガソンは大規模なチーム改造に着手、後に殿堂入りするデイル・ハワチャック(Dale Hawerchuk)を全体ドラフト1位で指名したほか、トレードでポール・マクレーンなどを獲得し戦力の入れ替えを行った。ファーガソンはさらにシーズン中にカナディアンズの後輩で前キャプテンのサージ・サヴァードを入団させ、若い選手の多いチームの生きた手本にした。その結果、1981-1982シーズンにおいてハワチャックは103ポイントを挙げ新人王を獲得、最優秀ヘッドコーチとなったトム・ワットの好采配も手伝ってチームは10位にまで急浮上する。1984-1985シーズンはハワチャックとマクレーンが100ポイント以上を挙げ、ゴールキーパーのブライアン・ヘイワードの台頭もあり、リーグ4位にまで浮上した。

NHLがアメリカ合衆国へと膨張を続けるなか、チームを維持するための経費や選手の年俸が急増し、ジェッツは最有力選手の保有にも事欠くこととなる。チーム救済のため様々な手立てが考えられたのであるが、結局ウィニペグ市外からの資本に屈せざるをえないこととなった。1996年ウィニペグ・ジェッツはアリゾナ州へと転出し、ここにフェニックス・コヨーテズ(Phoenix Coyotes)が誕生したのである。

ボビー・ハルがつけた9番とトーマス・スティーンがつけた25番を永久欠番としている。両背番号は、フランチャイズのグランデールアリーナに掲げられている。もっとも、9番はボビーの息子ブレット・ハル(Brett Hull、2004年にチームに移籍)がチームに在籍する期間中に限って着用した。

2004年には、ウィニペグ在住の作家スティーブ・ランディン (Steve Lundin) は、その著作 "When She's Gone"[1]のなかで、ジェッツを失ったマニトバ州のホッケーファン達の精神的ダメージを描いている。

2005年8月8日、チームはチームオーナーの1人でもあるウェイン・グレツキーがヘッドコーチに就任した。10月8日、グレツキーとボビー・ハルがリング・オブ・オナーの最初のメンバーに選ばれた。15日、ブレット・ハルが引退を発表した。2005-2006シーズン、シーズンを通して苦戦し、チームはカンファレンス12位に終わり、プレーオフ進出を逃した。

さらに悪いことには、2006-2007シーズンはフェニックス移転以降最悪の成績(31勝46敗5延長負)に終わった。

しかし、2006-07シーズンの不振により全体3位の指名権を得たコヨーテズは、カイル・トゥリス (Kyle Turris) を指名した。トゥリスは2008年4月3日にNHLデビューを果たした。

2007-2008年は、ドラフトで指名したピーター・ミューラー (Peter Mueller) やマーティン・ハンザル (Martin Hanzal) を中心としてチーム作りを行った。一方でカーティス・ジョセフ (Curtis Joseph) を不安だと見たチームは、アレックス・オールド (Alex Auld) やデービッド・アビッシャー (David Aebischer) を獲得。前年とは一味違った形で開幕を迎えた。

2009年9月24日、グレツキーはヘッドコーチを辞任した。

2014年1月29日、チームは2014-2015シーズンより名称をアリゾナ・コヨーテズ(Arizona Coyotes)に変更すると発表した。

2015年-2017年まで恐らく日本人としては初めて若林弘紀がアリゾナ・コヨーテズの下部組織であるアリゾナ・ジュニア・コヨーテズで指導を始める。

2020年12月に多発性骨髄腫闘病中の若林弘紀を励ます応援メッセージが公式HPにて掲載される。

2021-2022シーズンからは、シアトル・クラーケンの参入に伴い、コヨーテズはセントラル・ディビジョンに移る。