オーストリア ブンデスリーガ | 05/05 15:00 | 30 | ラピッドウィーン v FCザルツブルク | - | View | |
オーストリア ブンデスリーガ | 05/12 15:00 | 31 | ハルトベルク v FCザルツブルク | - | View | |
オーストリア ブンデスリーガ | 05/19 15:00 | 32 | FCザルツブルク v LASKリンツ | - | View |
レッドブル・ザルツブルク(FC Red Bull Salzburg)は、オーストリアのザルツブルクを本拠地とするサッカークラブである。オーストリア・ブンデスリーガに加盟し、SKラピード・ウィーンやFKアウストリア・ウィーンと共にリーグを代表する強豪である。 スポンサーの制限により、クラブはFCザルツブルク(FC Salzburg)としても知られており、UEFAの大会でプレーする際には修正されたエンブレムと共に使用している。
2017年に国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)が発表したクラブ世界ランキングで10位にランクされた。
1930年代まで存在していたFCラピード・ザルツブルクとFCヘルタ・ザルツブルクの合併により1933年9月13日にSVアウストリア・ザルツブルク(SV Austria Salzburg)として創設された。同じくザルツブルクを本拠地とするSAK 1914ザルツブルクの陰に長年隠れていたが、第二次世界大戦後に徐々に頭角を現すようになり[]、1953年に1部リーグにあたるオーストリア・ブンデスリーガ(当時のリーグ名は「Staatsliga」)に昇格した。
1971年にはオーストリア・ブンデスリーガ(以下「リーグ戦」と表記)とミトローパ・カップで準優勝した。一方で、1950年代には1度、1960年代には3度、1970年代と1980年代に1度ずつ2部リーグへの降格も経験し、特に1960年代はオーストリアを代表するエレベーターチームの1つであった。[]財政的な理由から1985年には同じくザルツブルクを本拠地とし、当時はSVアウストリア・ザルツブルクよりも好成績を収めていたライバルのSAK 1914ザルツブルクとの合併を自ら希望するものの、先方に断られるなどクラブの将来性が見えず、クラブの存続自体が長年に渡り危ぶまれていた。[]
FKアウストリア・ウィーン、ラピード・ウィーン、そしてFCヴァッカー・インスブルックの強豪クラブがリーグ優勝やカップ優勝を重ねる中、SVアウストリア・ザルツブルクはオーストリア・ブンデスリーガの弱小クラブの一つであった。[]
ちなみに1973年よりスポンサー名がクラブ名に付くようになり、クラブ名は"SV Gerngroß A. Salzburg"(1973-1976)、"SV Sparkasse Austria Salzburg"(1976-1978)、"SV Casino Austria Salzburg"(1978-1997)、"SV Wüstenrot Salzburg"(1997-2005)と変更された。
長年スポンサーであったオーストリア・カジノ社が積極的に投資するようになり、ヴォルフガング・ファイアージンガー、トーマス・ヴィンクルホーファー、ハイモ・プファイフェンベルガー、ヘリベルト・ヴェーバー、オットー・コンラードなど数多くのオーストリア代表選手が所属するようになる。また、オリバー・ビアホフ(後にドイツ代表に選出)が1991年に入団してリーグ得点王になった。1992年および1993年にはオーストリア・ブンデスリーガで準優勝、1994年にオットー・バリッチ監督の下、リーグ優勝を果たした。
UEFAカップ1993-94では決勝に進出し、イタリアのインテルナツィオナーレ・ミラノに敗れたが、準優勝の成績を残した。
1994-1995のシーズンで2年連続のリーグ優勝。UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95にも出場し、グループリーグでオランダのアヤックスにホームとアウェーで引き分け、ギリシャのAEKアテネには勝利するが、イタリアのACミランに敗れて、同勝ち点ながら得失点差でグループリーグで敗退した。
1995-1996シーズンはクラブ内の権力争いもありチームがなかなかまとまらずリーグ戦で8位に終わった。
1996年の夏には数多くの主力選手を放出、中心選手であったヴォルフガング・ファイアージンガーがボルシア・ドルトムントへ、ハイモ・プファイフェンベルガーがヴェルダー・ブレーメンへ、そしてオットー・コンラートがレアル・サラゴサへ移籍したが、レネー・アウフハウザー、ロベルト・イベルツベルガー、ゲルノット・プラスネッガーなど若手も育ち、リーグ戦で3度目の優勝を果たした。
1998年以降はリーグ戦、オーストリア・カップ、そしてヨーロッパカップでも結果を残す事が出来ず、オーストリア・ブンデスリーガでは優勝争いに絡むどころか、2部降格の危機もあった。
2000年以降もオーストリア・ブンデスリーガで6位、6位、3位、7位、9位と目立った結果を残す事が出来ず、オーストリア・カップでも当時オーストリア2部に属していたFCケルンテンやザンクト・ペルテンに敗北するなど1990年代の黄金時代を知るザルツブルク・サポーターの期待を裏切り続けた。また財政上も非常に厳しい時期が続き、クラブは破産寸前の状態となり、プロサッカーの維持のみならず、クラブの存続自体が危ぶまれていた。
2005年、レッドブルなどを取り扱うオーストリアの飲料メーカーのレッドブル (企業)(以下「レッドブル社」)がクラブを買収。名称が「レッドブル・ザルツブルク」に変更された。
2005-06シーズンはFCヴァッカー・インスブルック、ハンブルガーSV、1.FCカイザースラウテルンなどの監督を務めたクルト・ヤーラが監督に就任。
バイエルン・ミュンヘンから元ドイツ代表のトーマス・リンケとアレクサンダー・ツィックラー、ボーフムからスロベニア代表のアレクサンデル・クナウス、チェコ代表のヴラティスラフ・ロクヴェンツなどが加入、リーグ戦で準優勝を果たす。しかしシーズン終了後、選手の移籍金問題でフロントと対立したためクルト・ヤーラは監督を解雇される。
2006年の夏に元イタリア代表監督のジョバンニ・トラパットーニと元ドイツ代表主将のローター・マテウスがそれぞれ監督とヘッドコーチに就任。また、ニコ・コヴァチ(元バイヤー・レバークーゼン、ハンブルガーSV、バイエルン・ミュンヘン、ヘルタ・ベルリン)、ヨハン・フォンランテン(元PSVアイントホーフェン、NACブレダ、ブレシア)、ティモ・オクス(元1860ミュンヘン)、レモ・マイヤー(元FCルツェルン、1860ミュンヘン)、ホルヘ・ヴァルガス(元レッジーナ、エンポリ、リヴォルノ)、クリスティアン・ティファート(元VfBシュトゥットガルト)、マークス・シュタインヘーファー(元バイエルン・ミュンヘン・サテライト)などを獲得。2006年12月にガンバ大阪の宮本恒靖と浦和レッズの三都主アレサンドロを獲得。オーストリア・カップでは準決勝に進出し、リーグ戦は10年ぶりとなる4度目のリーグ優勝を果たした。
UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07は予選3回戦でスペインのバレンシアCFに敗れた。
2007-08シーズンはリーグ戦で準優勝の成績を残した。UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08は予選3回戦でウクライナのシャフタール・ドネツクに敗れた。
2007年6月12日、様々な見解の違いから(公式ホームページ日本語版)[]、ヘッドコーチのローター・マテウスを解任した。
2008-09シーズンよりアヤックス・アムステルダム、FCポルト、AZアルクマールなどで指揮を執ったオランダ出身のコー・アドリアーンセが監督に就任した。